少年が夢を叶える映画だと思ったら、とんでもない映画だった。
『きっと、いい日が待っている』
監督:イェスパ・W・ネルスン 2016年 デンマーク 119分
主人公の少年エルマーが、宇宙飛行士になりたい少年が夢をかなえるような呑気な映画だと思っていたら大間違いで、これは本当にものすごい映画だった。後味が圧倒的に悪い。でも、観てよかったと思える映画だった。
僕が子供の頃、近くには「少年院前」というバス停があった。「少年院」というのは、犯罪を犯した少年たちが集められ、その内部は、過酷で、残酷なことが日常的に起こっているのだと、同級生や年長者から聞かされていた。少年漫画でも「男組」とか「暴力大将」なんかで、そんなものすごい、刑務所みたいな場所を想像していた。もちろん、この映画のような保護施設と、犯罪を犯した少年を収監する「少年鑑別所」や「少年院」とは違うのだけれども、子供の頃の僕は、そんな「少年院」から、ものすごいやつが脱走してきたらどうしよう、などと妄想していた。
1960年代末のコペンハーゲンを舞台にしたこの映画は、僕の中でもうっすら記憶がある、アポロ11号の月面着陸の出来事が大きな役割を持っている。予告編をぼんやりと観ていた僕は、宇宙飛行士になりたい少年が、やがて夢を叶えていくような映画か、『My Life as a Dog』のような、少年と少女の儚い思い出の話か何かだと思っていた。
美しい映画だと思う。そして、少年たちがこんなに殴られる映画を久しぶりに観た。施設を管理する役人のような教師たちと責任者である校長は、少年たちを更生させるという大義をもって、過酷な規律と労働を強いて、効率よく「正しい少年」にしようとする。その正しさは、少年たちのためではなく、大人にとって都合のいい正しさでしかない。幽霊のように没個性化し、滅私奉公を身体で覚えさせようという、戦前の日本の教育を観るようだった。
「宇宙飛行士になりたい」と口にしただけで、いきなり殴られ、それは間違っていると言われる。社会に役に立つ職人になることが、ここでの上がりだからだ。一番厳しかったのは、教員の中に変態がいて、少年たちを夜毎に自室に呼び出しているシーンだった。主人公の弟エルマーにもその呼出がやってくる。直接の陵辱のシーンはないものの、目を覆いたくなるようなエピソードだった。事実かどうかはわからないが、こんな施設だったありえただろうと思ってしまう。
実話に基づいているというこの映画は、自国の政策の恥部をさらけ出している。更生という大義は、こうして、管理する側も、される側も、周囲の人間も変えていく。エルマーの素朴な将来の夢が、そこに裂け目を作ることになるのだが、後味の悪さは消えなかった。
「写狂老人A」はやっぱり凄かった
『写狂老人A 荒木経惟』
2017年7月11日 東京オペラシティー・アートギャラリー
『写狂老人A』を観てきた。
熱心に追いかけてきた人ではないけれども、この人の写真はずっと好きだ。77歳の写真はますます猥褻で、ますますセンチメンタルで、どこまでも「写真集」であると思った。単体で数枚を見るような人ではなくて、あくまで膨大な「集」として、その何か集積を圧倒的な空間で見せる人だと思う。
今回は新作をゼラチン・シルバープリントで展示している。ビデオプロジェクターによるスライドショーのような展示もあるのだが、やはり圧巻は白黒写真の集積だと思う。いわゆるモノクロ写真は、印画紙で見せるという当たり前の手法なのだが、今ではかえってコストも掛かる。白黒の写真は、やっぱり印画紙がいいな、などと素直に感心してしまう。
入り口からすぐの展示は「大光画」で140×100cmのサイズの裸が並ぶ。「週刊大衆」の「人妻エロス」のシリーズだから、圧倒的に猥褻だ。美しいとはとても思われない、ダイナミックなスタイルの女性も、老いた女性の裸体も、誇らしげに「エロス」を突きつけてくる。このサイズでこれだけの数(50点)を見せられると、もはや、「これにエロスを感じないお前はおかしいのだ」と言われているようだ。
次の部屋は「空百景」と「花百景」で45.7×56cmの写真が点ずつ壁面の上までを覆っている。一転して美しいのだけど、それは単体としての写真の美しさではなくて、この展示空間の壁面の美しさだと思う。見上げるように100枚の空を見、100枚の花に目を凝らす。
「写狂老人日記」は13×18cmの写真が687枚。写真がスタイルでなく、本気で日記と化していることがわかる。すべての写真は「'17.7.7」の日付があるが、少し見ていくと、冬の風景もあることに気が付き、この日付の意味を考える。妻、陽子さんとの結婚記念日であることを、受付でもらった作品リストを読んで知る。それにしても、それぞれの部屋にそれぞれのサイズで、それぞれの空間に適した(むしろ過剰な)展示数で飾られている写真は、写真の本来の役割を考えさせられる。ここにある687枚はこのサイズで壁に貼られてこそ写真になる。
数週間前に見た写真美術館の写真展では、どう考えてこのサイズにしても意味が無いだろうと思う写真が、「芸術」として展示されていた。平成の写真の閉塞感しか感じなかった展覧会だったが、そこにあったのは、写真が額装された「作品」と化した醜い姿だった。
この人の写真は、絶対に「ゲイジュツ」などではないところがやはり凄い。明らかに猥褻だし、どう見ても日記だし、毎日の窓越しの風景だ。『花百景』は唯一、「ゲイジュツ」に歩み寄ろうとしているけれども、そこになるのは、圧倒的な「花の塊」だ。
また、「切実」に(ripping truth 切り刻まれた真実)という英語タイトルがあてられていて、このセンスはとてもいいと思った。
出口にまとめられた年表と、写真集の出版数を見ながら、呆然とする。この元気な写狂老人が死んだら、昭和の写真は、終わる気がした。
描かないことで現れる空間の面白さを再認識した映画だった
『午後8時の訪問者』
監督:ジャン=ピエール&ジャック・ダルデンヌ 2016年 ベルギー/フランス 106分
郊外の小さな診療所にいるジェニーという若い女医は、やがて大きな病院に勤務するらしい。それまでの間、知人で初老の男性医師の代わりにこの診療所にいることがわかる。診療所には若い研修医の男性もいる。ジェニーがこれから異動する病院の歓迎パーティーに向かう夜に事件が起こる。
この映画は、よくわからない事と描くべき細部が絶妙のバランスで点在する。例えばジェニーは聴診器を当てて患者の音を聴く。その音は我々には聞こえないし、ジャニーが何かを感じたことだけはわかる。聞こえないけれども、そのやり取りは細部まで描かれていて、患者と医者とのやり取りは事件の解明のための手段だったことがわかる。ジャニーは患者の微妙な動揺や反応を聴いていた。
わからない事といえば、ジェニーのことはほとんどよく解らない。何者なのか? プライベートな空間もほとんど描かれていない。ストーリーから見えること以上の情報は意図的に隠されている。それは、物語全体の約束事のように機能している。周囲の人物も実はよく解らない人たちだ。患者の少年もその両親も、被害者もその姉も、若い研修医の行動も、そしてこの診療所も、内部は何度も描かれるが、外観もほとんどドアしか現れないし、どこの町なのかもわからない。ジェニーがここを手伝っている経緯もよく解らない。ジェニーが行くはずだった病院も細かいことはわからない。ジェニーと周囲の人達は、こんな絶妙なわからなさに包まれている。その奇妙な空間で、理由の分からない殺人が起こっている。
見終わった後の、不愉快ではない後味の悪さとその不思議な感覚は、演出の策にハマった者が感じる映画的な動揺だと思った。
本気で嫌だと言っているヒトたちと、今ここにいるのは自分というヒトではない、と思い込もうとしているヒトたち
『標的の島 風かたか』
監督:三上智恵 撮影監督:平田守 2017年 119分 DCP・BD
昨日(2017年4月10日)、『標的の島 風かたか』を観てきた。帰路、様々なことを考えた。何もできない自分に苛立つよりも、この映画で描かれている人たちの長い道を想った。『標的の村』も『戰場ぬ止み』も、今回も、地域に生きる当事者たちの姿が描かれていた。事態は悪化しているだけだった。ゆっくりと、じっくりと。この映画を観たことを、そしてこの映画で知ったことを知人や学生たちに伝えようと思った。今日のニュースでは、アメリカ軍の艦隊が朝鮮半島に集結しているという。アメリカ軍が留まっている先には、北と南を隔てる境界線がある。1953年に合意された休戦協定による軍事境界線が、アメリカ軍の防波堤になっている。
沖縄にはどうして、辺野古、高江の基地やヘリパッドの建設に賛成の人や反対をしない人がいるのだろうか?と、素朴に思う人がいるだろう。それは、原発にしても同じだ。賛成か反対かというふたつの立場だけではなく、「どちらかと言えば賛成・反対」という意見もあるだろう。「関係ない」という人もいる。「知りたくない」という人もいる。そうだ。知りたくない人が知らないように、関係ないと言う人が関係しないように事が運んでいる。だから、この映画で伝えられるアメリカ軍の「エアシーバトル構想」も知られてはいない。日本全土と奄美、沖縄本島、宮古島、石垣島、台湾へと続く大きな弧は、中国と対峙する防衛ラインとして設定されている。防波堤=風かたか。地域を守る「風かたか」になろうと抵抗する人たちと、中国の軍事的脅威を唱え暴力的に築かれる防波堤。
宮古島の自衛隊基地建設や石垣島のミサイル基地建設は、住民たちを二分する。これまでにも、何度も見てきた住民同士の対立がここでも繰り返される。「反対する人たちはどうして自衛隊が来るとすぐに戦争と結びつけるんだ! 中国の脅威に対する防衛手段だ!」と防衛省のようなことをいう人たちがいる。「日本軍は沖縄の人間を守らなかった。軍隊に殺された人もいる!」と、沖縄戦の記憶を辿る人たちがいる。もちろん、基地建設と自衛隊員の流入で金銭的に潤う人たちもいる。だから、対立するのはいつも当事者たちだ。原発立地に人たちも、ダム建設立地の人たちも、公害病の地域の人たちも。同じ地域で暮らしてきた人たちが、激しく対立する。
この映画が描いているのは「反対」を主張する人々ではない。その土地に生きていて、そこで暮らし続けたいという人たちだ。ずっと、その土地を愛してきた人たちが、「嫌だ」と言っている。どんな人が嫌だと言っているのか? この映画を見ればわかる。人が本気で嫌だと言っている言葉を、至近距離で聞いている機動隊の隊員たちは、暗示にかけるように、人ではないふりをする。この若い隊員たちは「沖縄で過激派や活動家たちが、ヘリパッド建設を妨害しているから排除してこい」と言われてきたはずだ。そこにいたのは、本気で生きている住人たちだったはずだ。もちろん、県内の他地域や県外から支援に来た人もいただろう。彼らは同じ痛みを少しでも共有しようとしている人たちに見える。みんな同じように、力強い怒りの眼をしているからだ。警察や機動隊員も、地元では正義感のある若者なのかもしれない。この映画は、だから悲しい。
クリスチャン・ボルタンスキーとChim↑ Pomを同じ日に観る面白さについて
先日、目黒庭園美術館で「アニミタスーざわめく亡霊たち』を観て、その後に新宿歌舞伎町でChim↑ Pomの個展「また明日も観てくれるかな?」を観た。
旧朝香宮邸で、休日の庭園を楽しむ家族を横目に、銀色のエマージェンシー・ブランケットで覆われたナチスの没収品の山(中身が本当に古着の山であるかどうかは見えないのだが)をみつめる、巨大にプリントされた眼差しを観る。干し草が敷き詰められたフロアーにある大きなパネルには、はじめは海の景色かと思った、世界で最も乾燥した砂漠と、香川県の夏らしい森林が映し出され、鉄器で作られた風鈴が揺れている。
見えないものが見えてくる時、ボルタンスキーのインスタレーションは、立ち止まる時間と作品と対話する静寂さを誘う。
過去と対話する時間は、重苦しく、それでも心地よい。その対話が現在との通路になっている気がする。
歌舞伎町の喧騒のなか、何度か通ったはずの街の一角の古びたビルにその入口はあった。学生時代にはライブ会場として通ったアシベ会館の直ぐそば。
取り壊される古いビルは、歌舞伎町の幾つもの記憶を丸抱えしていたかのような外観を見せる。どれだけ変わったのかわからない各店舗の看板。周囲は高層化して、すぐ裏はゴジラがいる「TOHOシネマズ」のビルだ。かつて「コマ劇場」だったころ、ここではどんな音が聞こえたのだろうか? どんな人が、この3階の雀荘に通ったのだろうか? Chim↑ Pomが見せつけるどこを掘っても「現在」が出てきそうな空間は面白い。しかし、どこまでも現在。更新し続けるただの「現在」は、こうして見せつけられることで、かろうじて「現在」を演じきって葬られるように思う。そうでなければ、あっさりと「過去」になってしまうような、一過性の現在の連続が、束になってそこに積み重ねられていた。
http://www.cinra.net/interview/201610-chimpom
だれにでも思い当たる細部が積み重なり「かつてそこにあった」匂いがする

『海よりも まだ深く』
原案・脚本・監督:是枝裕和 撮影:山崎 裕 2016年 117分 日本
だれにでも思い当たるような出来事が積み重なって、「かつてそこにあった」ような匂いがしてくる。ありふれた家族とは少しだけ違うけれども、当たり前の感情をそれぞれが持っていて、少しだけ気を使い合っている。むしろそういう家族が少なくなったのかもしれない、と思う。
郊外の団地は、1960年代に次々に作られ、当時は「あこがれの団地住まい」だった。そういうPR映画を観たこともある。その映画には、申し訳程度のベランダに、わざわざテーブルと椅子を設置してウイスキーを飲んでいる姿があった。銭湯に行かなくても自宅に風呂があり、畳から椅子、座卓からテーブル、雨戸からサッシ、そしてインスタントコーヒーや紅茶とクッキーが団地生活のシンボルだった。そんな団地はどこも住人の高齢化と建物の老朽化が進み、ここ十数年は建て替えが工事が進んでいる。
『海よりもまだ深く』で描かれるのは、まさにそんな団地の記憶であり、そこで育った子どもたちが、それぞれに家庭を持ち、父親の死をきっかけに、その記憶を再び醸成するような物語だった。描かれる細部は、どれも記憶の隅にあり、言われなければ忘れてしまっているようなものだ。例えば、母親が狭い台所を通って干した布団を部屋に入れる。テーブルでは娘が喪中の葉書の宛名を書いていている。そのテーブルには雑多なものが置かれている。冷蔵庫の中のカップで凍らせたカルピスはなかなか溶けず、「冷蔵庫臭い」という。大切なモノが米びつや押入れの戸袋に隠してある。風呂はところどころ黒ずんでいて、久しぶりに入った息子は、浮かんできた風呂釜の汚れをすくっている。
事件といえば、台風が近づき通過して行くことくらいだ。この台風は、元家族の気持ちを少しだけ揺さぶりはするものの、また、元の日常に戻っていく。この少しだけ揺さぶられた気持ちの機微が美しいと思う。相米慎二が『台風クラブ』で描いたのは、中学校に取り残された生徒たちの突発的な気持ちの昂ぶりだった。台風はその引き金として、彼らの気持ちを大きく揺さぶった。今、台風は大人になりすぎた夫婦を大きくは変えないけれども、遠慮がちに興奮する子供の姿が、自分たちを写しているようにも見える。聞き分けのいい子供は、野球選手には「なれるわけがない」と悟り、大きな夢を見るよりも「地方公務員」になりたいという。父親は自分がそうだったことを思い出すが、今は、「小説家になったことがある」夢の記憶をたどりながら、食うための仕事とギャンブルで生きている。台風の夜に、タコの形をした奇妙な遊具の下で過ごしたことがあるという父親の話は面白い。悪友と給水塔に登って降りられなくなったという話は、冒険のし過ぎで迷惑をかけた自分の姿を映し、今、息子とはタコの遊具の下で過ごす。行き過ぎない冒険は、控えめな息子を適度に刺激する。息子に買ってあげた宝くじが、台風の夜に散乱し、雨の中を「元家族」がみんなで拾うシーンは、そんな微妙な将来を暗示しているように思う。
オリジナルの脚本の映画が少なくなった。マンガやベストセラー小説、テレビドラマの劇場版ばかりが増えている。こういう美しいオリジナル脚本の映画が、もっと観たい。
「まずは観ておこう」と思った映画は「とにかく誰かに話したくなる」映画だった

『ヴィクトリア 』
監督:セバスチャン・シッパー 撮影:ストゥルラ・ブラント・グロヴレン 2015年 ドイツ 139分
140分のワンカットであることも予告編で知って、これはどんなに退屈だったとしても見ておくべきだと思った。その試みに敬意を表したかったからだ。
すさまじい映画だった。前半の数十分は、ヴィクトリアがクラブで出会った若い男たちと、ダラダラと酒を飲んで過ごす。日本でも見かけそうな、珍しくはない状況が続く。午前4時だと誰かが言った。明らかに品のない若者たちに、嫌悪ではなく僅かな共感を頼りに惹かれていく危うい娘がいる。一旦は若者と別れ、そのうちの一人・ゾンネに送られ、早朝から開けなければならない勤め先のカフェで、自らの挫折を語る。ピアニストになろうとしていた日々は、多くの同じような夢を見る若者がそうであるように打ち砕かれ、ヴィクトリアはベルリンに来たのだという。ゾンネと少しだけ通じあって、何事も無く明けるはずだったその日は、まだしらんでもいない頃に一変する。
「やばい仕事」に巻き込まれる。ありがちなストーリーだと思うが、その展開の速さに目を奪われた。強盗に言ったんは成功し、逃走し、冒頭のクラブで成功に酔う。再び逃走、銃撃、仲間の死、逃走、ゾンネの死、逃走。めまぐるしく変わる状況が、ワンカットで撮影されていることを忘れ、そのことに気がついて驚く。
自分が見ておくべき映画というだけでなく、誰かとその凄さを共有したくなる映画だった。
ふたつの「ボーダー」をめぐって

『ボーダーライン 』
監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ 主演:エミリー・ブラント
2015年 アメリカ

『オマールの壁 』
監督・脚本・製作:ハニ・アブ・アサド
2013年 パレスチナ 97分 アラビア語・ヘブライ語
オマールとその仲間たちが、丘の上でジョーク言い合う。どこからか運ばれた自動車のシートに座って。「猿を簡単に捕まえる方法」は、穴の中に角砂糖を入れておけばいいという。猿が中の角砂糖を掴むと手が抜けなくなる。このジョークは、映画を見ている観客に幾度か反芻させる。「簡単に捕まってしまう猿」は誰か? 最後にはオマールに「猿にならない決断」をさせる。
いい映画だった。何が? 映画として本当によく出来ている。観る者が感じる後味の悪さは、この映画が「映画」として回収されることを拒んでいる証左だと思う。
たまたま数日前に観た『ボーダーライン』も期せずして境界を描いた映画だった。アメリカ映画の中では、シリアスな社会問題を扱っていて面白いとは思った。でもそれは、やっぱりアメリカ映画だった。痛みは誰が背負うのか? 主人公の苦悩に集約してしまう脚本は、それでも良く出来ている。だからこそ、「よく出来過ぎている」のだと思う。どうしても、厄介な問題に巻き込まれた正義感を持ったの女性、という落とし所が、観る者を安心させる。
『オマールの壁』にあったのは、どこまでも連鎖する猜疑心が、友人同士の揉め事のレベルではなくなるという事態だ。誰かがスパイかもしれない。それは、どうすれば解るのか? 誰かを囮にしておびき出す。おびき出される。スパイが判った時に何が起こるのか? それが誰であったかによって事態は大きく動いていく。利用される者、取引に応じるもの、応じざるをえないもの、応じたつもりで裏切られたもの、裏切るもの。
具体的にはヨルダン川西岸に築かれた大きな壁が、オマールの精神を分断するのだが、幾つもの壁がそこにはあった。
こうした行為を、美術を志す学生に「正しく」伝えるのは、難しいだろうな。




『BANKSY Does New York』
監督:クリス・モーカーベル 2014年 アメリカ 81分
http://www.uplink.co.jp/banksydoesny/
大規模ないたずらが、1ヶ月間New Yorkを席巻する。そのさまを見ながら、創作物の価値とか意味とか、活動の意義などという、とても「まっとうなこと」を考えさせられた。
ひとことで言えば「大規模ないたずら」だし、法的には「器物損壊」などの犯罪行為にあたる。しかしそれは、ぎりぎりの表現行為であるとも言えるし、アクティビズムの一環であるとも言える。グラフィティー・アートという呼称で、現代美術の文脈に回収しようとする画商や評論家たちもいる。80年代のグラフィティー・アートの寵児、ジャン・ミッシェル・バスキアやキース・ヘリングと比較する人もいるし、その後のグラフィティー・アートの潮流を丁寧に解説している文章も読んでみた。2016年3月25日発行の「週刊金曜日」も、この映画をめぐって特集が組まれている。
http://www.kinyobi.co.jp/tokushu/001960.php
人騒がせな行為であることに変わりはない。そして、それはとても愉快だ。この映画の観客は、たぶん、バンクシーと同じ視点からN.Yの狂騒を観ているけれども、「馬鹿だな〜」などと客席で安心している自分は、いつでも「馬鹿の側」に引き込まれる可能性があって、とても不安になる。実際に、『EXIT THOUGH THE GIFT SHOP』(2010年)のなかで、何の才能もないのに「アーティスト」になってしまったミスター・ブレインウォッシュは、バンクシーによる展覧会の告知文が火種になって、話題のアーティストになった。そこでターゲットにしていたのは「現代アート」ビジネスの仕組みだった。話題を作ればアートになる。時代の寵児が推薦すればゴミのような創作物が何万ドルで売れる。根拠もなく時代を先取りしていると思い込んでいる危うい自分たちも、その作品や作者を褒めそやす側になるかもしれない。そうした狂ったシステムは、我々の日常に蔓延している。
それにしても、バンクシーの魅力がその創作物の「切れ味」であることは、これまでのグラフィティーとは一線を画す。政治的なメッセージや、不覚にも感動してしまいそうな動画は、その切れ味とともに記憶される。バンクシーのシンボルのように商品化された『Something In The Air』では、火炎瓶か石を持っていそうな若者が、花束を放る様子が描かれ、『Napalm』では、最も有名な戦場写真の「全裸で走るベトナム人少女」がミッキー・マウスとドナルド・マクドナルドに手を引かれている。こうした皮肉や風刺は、切れ味がなければ「すべる」だけだし、表現手法や「場所」の選択も大きく左右する。人騒がせといえば、2003年にパレスチナの隔離壁に描いた一連の作品は、その「場所」との関連が、即ち作品の意味であったといえるだろう。『BANKSY Does New York』に出てくるアートディラーは、その壁の一部を切り取ってわざわざ自分のギャラリーに運んできたという。「場所」から切り離されても、バンクシーの作品として数万ドルの価値を産んでしまう「バカバカしさ」がそこでは示されていた。
作品の価値という意味で傑作なのは、「10月13日」という日付の「行為」だろう。露天商の男を雇って自分のスプレー画を60ドルで売るというものだ。バンクシーの作品のアイコンとして有名なそれらは、見るからに模造品のように露店に並べられているが、本人のサインもある「正規品」が並んでいる。それがバンクシーのアイコンであるかどうか知ってか知らずか、たまたま購入した客は、バンクシーがその「行為」を自分の仕業だと認めた瞬間に、露天のスプレー画が30万ドルの「美術品」になるという事態をしる。バンクシーが設置した作品を盗むものもいる。もともと不法投棄だからそれを外して持ち帰ろうとする者が窃盗犯かどうか疑わしい。「器物損壊」を受けた側のオーナーや店主は、そのドアやシャッターを切り外して、大切に保存するか売り払うかする。「宝物を書きつける犯罪行為」とは、グラフィティー・アートの違法性も揺るがす。そして、それらが大切にされようが、持ち去られようが、上書きされようが、消されようが、当の仕掛け人は感知しないという約束事もある。膨れ上がる作品の値段も、匿名の作者とは無関係の取引であるようだ。N.Yの警察はバンクシーを逮捕するために奔走するのだが、周到に計画された組織犯罪であるため、ついに逮捕することも、目撃することもでない。この匿名であることを維持するエネルギーは、実は相当なものだろうし、多数の協力者(共犯者)がいるはずで、映画の中でも指摘されていた「匿名のブランド」を保つためには、組織力も必要だ。そうした大きな「匿名性の物語」を、どこまで拡大していくのだろうか。
こうした行為を、美術を志す学生に「正しく」伝えるのは、難しいだろうな。
美しい映像が、自分の貧しい記憶を超えて迫ってくる

『風の波紋』 監督:小林 茂 2015年 99分
その厳しい土地に定住しようという決意がどこから醸成されるのか? 僕には解らない。築200年という古民家を譲り受けて、改装して住むということ。それが2011年の震災を経て傾き、その家を諦めずに傾きを直し、また、住むということ。そこに定住するための原動力は何なのか? この映画は、それを教えてはくれない。
木暮さん夫妻は、そこで生きている。借り物だという田を耕し、「ぜんぜんいやじゃあないよ、これが俺のキャンパスみたいだ」と言う。本当だろうか? と思う。その答えも、この映画にはない。でも感じ取ることは出来る。たぶん本当なんだと、映画を観終わって思う。それが映像の力だったのだと改めて思う。圧倒的な自然と、圧倒的な映像の力が、言葉を超える。美しい映画に特有の映像による言語が、そこにはあった。
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- 少年が夢を叶える映画だと思ったら、とんでもない映画だった。 (08/21)
- 「写狂老人A」はやっぱり凄かった (07/12)
- 描かないことで現れる空間の面白さを再認識した映画だった (04/25)
- 本気で嫌だと言っているヒトたちと、今ここにいるのは自分というヒトではない、と思い込もうとしているヒトたち (04/11)
- クリスチャン・ボルタンスキーとChim↑ Pomを同じ日に観る面白さについて (10/25)
- だれにでも思い当たる細部が積み重なり「かつてそこにあった」匂いがする (06/09)
- 「まずは観ておこう」と思った映画は「とにかく誰かに話したくなる」映画だった (06/01)
- ふたつの「ボーダー」をめぐって (05/09)
- こうした行為を、美術を志す学生に「正しく」伝えるのは、難しいだろうな。 (04/02)
- 美しい映像が、自分の貧しい記憶を超えて迫ってくる (03/24)
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