2020.01.15 Wednesday

今、テレビは「ただの現在」でさえないのだろうか?

『さよならテレビ』

監督:土方宏史 プロデューサー:阿武野勝彦 

制作/配給:東海テレビ 配給協力:東風 2019年 109

 

高校での授業の冒頭でこの映画を紹介した。合わせて東海テレビが、テレビ局発の長編劇場用ドキュメンタリー映画制作の先鞭をつけて、この映画が2011年から続く12作目であること、そして、僕がこれまでに観た7作品がどれも独自の視点を持った素晴らしい映画であったこと、テレビ局発の長編ドキュメンタリー映画は、大きな可能性があると思わせてくれたことを話した。

しかし、この映画を紹介する時に、何かを言い澱んでしまったのは何故だろうかと考えた。

 

プロデューサーの阿武野勝彦さんとは、平和・協同ジャーナリスト基金賞の場などでお会いしたことがある。その時にも、〈地方のテレビ局が作ったドキュメンタリー番組は、全国配信される機会が極端に限られていて、そうであれば、劇場公開するほうが、長期間の全国展開も可能だし、何度でも観てもらうことができる〉といった趣旨の話をされていた。その通りだと思うし、東海テレビに続いていくつかの地方局が、長期取材したテレビ番組を劇場用に再編集して公開している。

 

12作目の劇場公開作品は、いくつかの話題が先行していたが、ようやく観ることができた。そして、この映画の後味の悪さをどのように説明したらいいのか、しばらく考えていた。「慢心」という言葉さえ観終わった後に思い浮かべてしまった。テレビがテレビを描くという自己言及の構造が、宣伝チラシにあるような「裸のラブレター」であると思っているとすれば、テレビはまだ思い上がってはいないかと思ってしまう。しかしその思い上がりをテレビ自体が描いてしまうこと、それがこの映画の狙いのひとつでもあるとすれば、不可解な入れ子の謎解きを命じられているようで不愉快ですらある。その怒りこそがテレビに必要なのだと、煙に巻かれるだろうか? 

テレビ局が舞台になったとても良くできたドラマだと言ってもいいかもしれない。実在の人物が実際の仕事を演じるという劇映画もある。その是非を問うているのではなくて、フェイクであるか、そうではないのかなどと論じあっている観客を高みから見ているような、テクニシャンの笑みが見え隠れする。そう考えると、ラストシーンの会議室でのやり取りは、77分だったというTV版にも入っていたのだろうか? と思ってしまう。

 

この映画は、どう考えても場当たり的な企画書から始まる。「今のテレビはどうなっているのか」と問うならば、その企画書の後段には何らかの仮説が書かれていたのだと思いたい。しかしこの粗末な企画書で撮影を始めることさえ、テレビ的な仕掛けなのだろうか? 何が撮りたいのか、それで何がしたいのかわからないと、現場のスタッフや上司からは問い詰められる。「まずは撮るのをやめろ」と叱責されたカメラマンは、「約束通り」に記録が続いたままでカメラを床に置き、音声だけが聞こえてくる。本当にこんなふうにこの映画は始まっていいんだろうかと半信半疑だった。そこで立ち止まり、作戦を立て直しているように見える。その後に、いくつかの約束事がかわされ、報道局の内部が映し出される。

「テレビとは何か?」という問いは「テレビとは何かに自ら言及するテレビ」という、仕掛けによって、複雑な構造を提示する。それは、「TVの今はどうなっているのか」という企画書の言葉に呼応する。メインから降板させられるキャスター、テレビがジャーナリズムであることの原則を信じている制作者、アイドルオタクで失敗ばかりしている契約社員のディレクター、と3人のそれぞれがテレビの現在を問うていることは解る。もう何十年も続いている局と委託・契約の制作体制が、ジャーナリズムとしての使命など置き去りにしてきたことは、日々の数字をノルマのように伝える姿を見れば、それが末期的であることも解る。「ぜひネタ」といった一見情報番組のような扱いが、スポンサー案件であることも理解できるし、ドラマ中のタイアップCMなどは地上波でも日常的に現れる。疲れていると思う。悪循環から抜け出す手立てを探っている人もいると思う。それで? と残酷な問いをあえて突きつける。

 

そもそも、メディアの自己言及は、そのメディアが疲弊した時に、くり返し起こっている。それは映画でもそうだし、演劇や文学でもそうかも知れない。70年代のテレビマンユニオンも、そこを去った佐藤輝の仕事も、佐々木昭一郎も木村栄文も知っているだろう人たちが、今、この映画で問うているものは何だろうか?

 

かつて「テレビとは〇〇である」といくつもの言葉をぶつけて、それを実践しようとした人たちがいた。『お前はただの現在に過ぎない』では「テレビとはなにか?」という問いに対して18の提言が記されている。

 

テレビは時間である。 現在である。 液体である。 生理である。 ケ(日常)である。 ドキュメンタリーである。 大衆である。 わが身のことである。 ジャズである。目で噛むチューインガムである。 第五の壁である。 窓である。 正面である。 対面である。 参加である。 装置である。 機構である。 非芸術・反権力である。

 

今、テレビのことを表すならば、何だと言えるだろうか?

 

テレビを信じるなとテレビマンが言うかのような仕掛けは、「ドキュメンタリーは嘘をつく」と言い切った森達也氏の映画に近いようで遠いのかもしれない。そもそもドキュメンタリーという言葉は「事実の創造的劇化」を許容していたし、再現であっても、それが誠実であれば手法の一部であった。だから、ドキュメンタリーは事実をベースにしていても、事実そのものではない。それは「真実」を描こうとする手続きであるといえば詭弁だろうか? そうではなくて、事実そのものを切り取ってフィルムに定着したとき、そこには既に制作者の恣意性が介在するという自明の論理は許容されてこなかった。TVドキュメンタリーは「捏造」や「やらせ」といった言葉を恐れ厳格に、自らを追い詰めていっったととも言える。だから、海外のドキュメンタリーに比べて自由度も少なく、むしろ狭量な自己検閲に苦しめられてきた。

 

僕は、テレビはもう終わってしまうとは思っていない。優れた番組やその作り手たちがいることも知っている。だから、総じてダメだと言い続けている。

テレビが「現在」であろうとしているか? 「液体」であろうとしているか?「生理」であろうとしているか? とあらためて問いたい。時流の中のメディア的な劣勢を憂う前に、テレビにさよならを告げる前に、やりっきたテレビの姿をもう一度見せてほしいと願う。

2020.01.04 Saturday

Sorry We Missed Youという感情のない定型句が、とても美しく悲しい言葉に思われる

『家族を想うとき』 原題:Sorry We Missed You 監督:ケン・ローチ

 2019年 イギリス・フランス・ベルギー 100

 

2019年の最後にケン・ローチのこの映画を観ることができてよかった。

以前から外国の映画を観ると原題の意味は考えていたけれども、この映画の原題『Sorry We Missed You』が、とても美しいタイトルだと思う。イギリスでは宅配便の不在通知に定型句として書かれているもののようだ。その言葉が映画全体にも響いていく。イギリスでの状況なのに出来事のひとつひとつに既視感に似た苦さが湧いてくる。今の日本で、いや、住んでいる場所の直ぐそばで見えているものが、いくつも思い出される。

20年以上うちに宅配を届けてくれる人は、以前は大手の制服を着ていた。最近は軽トラックには大手の会社のロゴはない。おそらく、委託の宅配業者として独立したのではないか? 大きなお世話かもしれないが、この人の顔が浮かんできた。

自動車事故で横転しているトラックをニュース映像で見ると、この荷物は誰が補償するんだろうか?などと心配になる。大手業者ならば、相応の保険があるのだろう。でも個人の委託業者だったら、などと思ってしまう。介護や保育の現場では、深刻な人手不足が続くのに待遇は改善されないままだし、コンビニのオーナー達の悲鳴も聞こえてきた一年だった。

この映画の家族も、慎ましく生きようとするのだが不器用ですべてがうまく行かない。宅配ドライバーの父親リッキーは、荷物のデータを送受信する小さな端末を持たせられ、2分間車を離れると警告音がなる。指定の時間に少しでも遅れるとペナルティーがある。客からのクレームもあるし、駐車違反も心配しなければならない。荷物を運んだ数が、収入の増減に直結している。家族の誰も悪くないのに、物事は悪い方にしか進まない。宅配業者を取りまとめている冷酷に見えるロニーでさえも、もっと上部の指示とノルマをこなすために、厳しい指示を出している労働者に過ぎない。妻、アビーの介護士としての優しさは、効率の悪い「余計なこと」でしかないのだろう。人と直接接する仕事でさえも、分刻みに管理されている。

そんな状況に、ケン・ローチは中途半端な「希望」を用意したりはしない。前作の『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016年)で描かれた人たちも、そんな理不尽さに巻き込まれていく。この映画のすぐ近くで、並行して起こっている悲劇のようだ。そんな錯覚もしてしまう。

2019.12.13 Friday

ヤングポールの「究極の映画愛」は、映画を「終わらせること」に執着した屈折した愛ではあるけれども、無視できない純粋さと情熱を保っている。

『Ghost Master ゴーストマスター』

監督:ヤングポール 脚本:楠野一郎/ヤングポール 2019年 91

 

4月からのゼミで、たまたま「映画についての映画」に取り組んだ学生がいたことで、あらためて「映画の中の映画」や「映画制作の現場が舞台となった映画」、「映画が制作される過程がいつの間にか映画の本体であるような映画」をいくつか観ていたために、『ゴーストマスター』も興味深く観ることが出来た。この映画でも、映画の撮影現場はたまたま選ばれた設定ではなく、「映画愛」を描くために必然的な選択だったはずだ。入れ子状に展開する映画とそれを撮る映画は、仕掛けを複雑にするだけではなく、物語のためにも十分に魅力的な仕掛けであることは間違いない。だからといって、既にいくつもの優れた「映画についての映画」がある以上、それらを超えるためには、それなりの覚悟と勇気が必要だ。

 

映画を作る者ならば誰でもその終わり方に随分とエネルギーを注ぐものだ。それは、2時間程度で上映される一般的な映画でも、10分の短編でも4時間を超える映画でも同じだと思う。しかし結末の巧みさに溺れているような映画は、せいぜい、よくできたシナリオを見せられているようでつまらない。映画は、やはり、観ることで共振し続けるような、視覚的な刺激の連鎖であるべきだ。もちろん、それは派手な視覚効果を切れ目なく続けるような見世物的興味を指してはいない。何も起こらないような長く静寂なカットでも、驚くほど動揺するような体験はできる。そしてそれらのカットは、終わりに向かって複雑に共鳴していく。問題はその塊をどのように葬るかにある。

『ゴーストマスター』は、映画の始まりから、徹底してこの映画を終わらせることに執着しているように見える。そして、映画を終わらせるためには、そもそも映画はどのように終わるべきか?などという問いに向かい合う必要がある。真面目に考えようとすれば、その過程で「映画」と何か?などと自問するはめになり、「映画をめぐる映画」は、自己言及の迷路に迷い込み、映画を作ることは映画を終わらせることに違いないと、自家撞着にたどり着くこともあるだろう。それはそれで、この生真面目な問いに、立脚点や視点を変えて繰り返し答え続けてきた映画の歴史にも重なる。思考停止の状況に気が付かないふりをして、どうでもいいようなものを量産し続けるよりは、遥かに創造的な営みだ。

 

しかし、「映画についての映画」のような自己言及は、文化的にはそれが疲弊した段階に現れる。それは映画に限らず音楽でも美術でもそうで、その都度、問いは変奏しながら何度でも現れてきた。画期的な答えも解決策もないために、安易なリメイクやリバイバルに救いを求めたり、終わることの出来ないシリーズを作り続けることで延命を図ることになる。それでも、安易な懐古は別としても、解釈の違いや表現の差を面白がることはできる。だから繰り返されてきた。

「映画についての映画」といえば、すぐにでも思い出す『カメラを止めるな!』という映画は、本来は隠される舞台裏を前面に押し上げることで、滑稽な「映画愛」を描いて見せ、それがあたかも映画の核心であるかのような誤解をさせたことで、自己言及をポジティヴに転換して、「映画好き」を喜ばせたらしい。しかし、よく耳にする「ナタバレ厳禁」が示しているように、その終わり方を隠すことでしか保てない訴求力とは、いかにも儚い。

 

もちろん『ゴーストマスター』をその程度の映画だと言いたいわけではない。B級ホラー映画に固執する助監督の黒澤明がしたためた自分の脚本が、唐突に予想外の力を持つことで荒唐無稽なストーリーを強引に引っ張ることは、映画として面白い。過剰な暴力を次々と引き寄せてしまう魔力のような設定は、それが「映画」だから許される悪戯だと言えるし、最後まで見せ続ける力量には感心する。「映画」とは、そもそも、始まってしまえば終わらなければならいという、そんな単純な動機で編まれていれば十分だと監督・ヤングポールは思っているだろうか? その単純さに、どこまで自覚的であるかが実は重要な問題なのかもしれない。映画を終わらせることが美しいと胸を張って言ってほしいと願う。今動いている映画を執拗に、暴力的に終わらせようと、何度も試みるその「終わり」への自家撞着こそ、うんざりするほどの屈折した「映画愛」を共有するための手引なのだと確信していれば、この映画はきっと許される。僕はそれを好きだと言ってもいい。

 

2019.12.09 Monday

森達也監督が問う「望月さんが目立っていることや、この映画をわざわざ撮ること自体が問題だ」というまっとうな感覚は、既にわれわれが狂った事態に麻痺していることを気づかせる

『i —新聞記者ドキュメントー』

監督:森達也 

出演:望月衣塑子 企画・製作・エグゼクティブプロデューサー:河村光庸

制作・配給:スターサンズ 2019年 113分 

 

 午後くらいから観ようと思うと、イオンシネマ板橋がちょうど都合が良く、休日の「青森フェア」で賑わう店内を通って5階につくと『アナと雪の女王2』のためか、とても混雑していて、それでも、シアター1はまるでポレポレ東中野のような客層で少し安心したような、相変わらずドキュメンタリーには若者が皆無であることにがっかりしたような、複雑な気分だった。それでも、ようやく観ることができてよかった。

 望月衣塑子記者のことは、報道されていることやFBや「週刊金曜日」などである程度は知っていたし、映画『新聞記者』も観ていたので、とても興味深かった。2017年には東京新聞の「税を追う」が平和・協同ジャーナリスト基金賞の奨励賞だったので、もしかすると会場でお会いできるかもしれないと思っていたが、それどころではなかっただろうことはこの映画を観ても解る。

 正直に言えば、映画としては雑な仕上がりだと思う。それは映画の中でもしばしば現れる森達也さんのカメラは、撮影していないように撮影している箇所や、突発的な動きや事態に対応していたり、撮影のための道具というよりは、むしろそこに共にあった記録装置のようで、画面としては動きが激しく荒い。それでもその映像が意味を持っているのは「現認」としての映像だし、編集された映像はできるだけ早く公開されることが目論まれたためだと思う。数年に渡る記録では手遅れになる可能性もある。日刊紙の新聞記者が、日々の取材を重ねて情報を更新していく一人のジャーナリストだとすれば、この映画はそれを一定期間でまとめた月刊誌のようなものだと思った。この月刊誌もまた、一定の期間で更新される必要がありそうだ。

 菅官房長官と望月記者とのやり取りは、既に何度か映像で観ていたし、何を質問されても「法的に適切に対応している」と繰り返す答弁や、質問妨害のあまりの酷さには憤っていた。それでも淡々と、同じような食いつき方を繰り返す望月記者の姿は、答えはわかりきっているけれども、この醜い対応の仕方を公表する必要があり、その対応の裏にある何かを嗅ぎ取ろうとする態度なのだと思った。強くアクティヴに映る彼女の姿は、「その他」の記者やメディアを照射しているように見えてしまう。実際に森監督自身が、「彼女が特別なことをしているわけではない」ことは十分承知で、それが格別の何かのように目立ち、あるいはそれ故に排除やバッシングの対象になり、官邸からもネトウヨからもマークされ、一方でメディアにも取り上げられ、講演などにもでかけていく、その現象に、ただならぬ事態とその急激な進行を嗅ぎ取っているのかもしれない。

 映画の内容には直接関係はないのだが、官邸の記者会見の様子は、すべての記者が一様に同じようにキーボードを叩く、その音の響きの空疎さでも伝わってこないか?誰も話をしている菅官房長官を見ていない。上意下達の儀式であるように映るのはそのためだと思う。この定例会見の主体は、主催者は誰なのか?という問もあった。だからこそ思う、何処を向いてメディアは仕事をしているのかと? 

 そう言えば望月記者が、大量の書類と一緒に書きなぐったような取材ノートをいつも持参していて、素早くメモをとる姿がどこか昭和の新聞記者像のようでもあった。長年積み上げた習慣なんだろうなと思う。

 日本国にもこの国のメディアも、一体何処に向かっていくのか? こんな当たり前の問いが、望月衣塑子記者の行動から浮かび上がる。

2019.09.08 Sunday

確かに希望が描かれているはずなのに清々しい気持ちになれないのは、構造的な貧困の連鎖と失われていくものの大きさが、重く深くのしかかってくるからだろうか?

『風をつかまえた少年』 原題:The Boy Who Hernessed the Wind

監督・脚本・出演:キウェテル・イジョフォー  2018年 イギリス、マラウイ 113

 

チラシを手にしてから、その映画のために想像をふくらませる時間は楽しい。この映画の主題が「たったひとりで風力発電を作った」というキャッチコピーで表されるなら、小さくても希望を感じる清々しい映画なのだろうと思った。原作は絵本にもなっていることを知った。実在のウイリアムがアメリカの大学に進学し、多くの人に知られたのは、奇跡的であっても嬉しい事実だ。現在は農業や水、教育の分野で仕事をしていると書かれていた。

 

この映画の根底にあるのは、マラウイ共和国がアフリカ最貧国のひとつであり、映画の中心は主食のトウモロコシと水をめぐる困難さである。2001年に起こった大旱魃は貧しさを加速させて、タバコ産業に土地を売るかどうかを迫られる。木材を伐採して燃料として売れば、一時的な収入にはなるけれども、それは水害を加速させるし、旱魃にも耐えられなくなる。僅かな木々を手放せば取り返しがつかなくなることは解っているが、当面の貧しさを乗り越えられない。地域の未来のためにも、子供を学校にやりたいという親の希望は、食料と水と貧しさの問題を克服することよりも、遥かに優先順位が低い。回り道のように見える知恵を育てた少年が、この土地を救うという、美しいがそれでも儚い希望の物語なのだ。

 

この映画では、主題とは少し距離をおいて、葬儀の儀式が印象に残る。葬儀の最中に、おそらくこの土地に伝わる精霊に扮したグループがやってくる。彼らは皆、仮面をかぶり鳥の羽を頭につけて、足の長い大きな鳥のようにも見える。かつての土着の民族が残した風習に従っているのだと思う。死者を死者の国に送る役割を担う「マレビト」たちではないか。葬儀の場面ではその役割を演じるが、疲弊して力尽きた姿も描かれる。この国や土地の姿を象徴しているのだが、視覚的な印象はそれ以上の効果をもたらしている。

 

それにしても、粗末な風車と自転車のライトを灯すダイナモを組み合わせて、僅かな電力を得るというのは解るのだが、その電力をポンプに使ったのかという素朴な疑問があった。井戸から水を汲み上げるシーンでは、いくらかの違和感があったからだ。そもそも井戸には常に水があったとすれば、それを組み上げる知恵は、少年の発電を待たなければならなかったのか? 人力で組み上げるのは効率が悪いことも理解できる。それでも、井戸には水があるのだから、なんとかならなかったものかと思う。マラウイには広大なマラウイ湖があるので、地形的には地下水は豊富なのかも知れない。おそらく井戸を掘る、水を汲み上げるという基盤づくりの作業が、農作業のために事業化されていない現実を描くことが重要だったのだろう。このことが、将来の希望よりも不安を掻き立てる。もっと大きな旱魃は来ないだろうか? もっと深刻な水害は、この程度の知恵で防ぐことができるのだろうか? 構造的な貧困の連鎖は簡単には回避できないだろう。それでも、それでも、こうした儚い希望を称賛することに戸惑いはないか。安全な場所から紛争の行方を眺めて、ため息をついているようなものではないのか。

 

公用語が英語だということにも少し戸惑いがあったが、マラウイは1891年にイギリスの保護領になり、1964年に独立してマラウイ共和国となっている。

 

 

2019.08.25 Sunday

この子らの絶望に対して、自分にできることは何ひとつ無いという絶望

『存在のない子供たち』 原題:Capharnaüm(カペナウム)

監督・脚本・出演:ナディーン・ラバキー 主演:ゼイン・アル=アフィーア

2018年 レバノン、フランス 125

http://sonzai-movie.jp/about.php

 

目の前に広がる風景は、一体どこの地域なのだろうかと、自分の記憶や既視感を手繰り寄せてみる。どうやら中東のどこかであるらしい。僅かな知識でも、その少年の目を見れば、最貧困層の居住地域らしいことだけはすぐに解る。難民キャンプではなく居住地域。どこからか逃れてきたのかも知れないが、仮住まいではない積年の生活感が、彼らの貧相な持ち物からも窺い知ることができる。幼い子供たちがゴロゴロと雑魚寝をする小さな部屋は、彼らの薄汚れた衣類からの匂いさえ感じることができる。少年・ゼインは、この家庭では子どもではなく、ごく若い労働力でしかない。すれ違う学校の送迎車の前面には、そうして荷物を運ぶことが違反でも非常識でもないと言わんばかりに、通学用のリュックが無造作に押し込まれている。まだマシな子どもたちが、幼い労働者を見ている。当たり前のように重労働を日課として、仕事を終えるといくつかの食料をもらい、ついでに見つからない程度に盗む。小さな商店の雇い主は、その家族の家主でもあるらしい。路上ではどうやって作ったのかはわからないが、赤い飲み物を並べて自家製ジュースと称して売る。「死なない程度に生きる」という、どこかで聞いたような言葉が浮かんでくる。映画に映し出されるこうした細部が、物語の強度をさらに補強するかのように、その少年の目は鈍い輝きを大人たちに向ける。

 

あるとき、妹・サハルの初潮に気がついたゼインは、汚れた下着を洗わせ、自分のシャツを股に挟ませて、それを隠そうとする。いつもの商店で生理用品を盗む。なぜか? 同居している子供たちは皆幼い。もしかすると以前には姉がいたのかも知れないが、初潮を合図に、人身売買のような結婚をさせられたのではないか? あるいは、そういうことが、この地域でいくらでも起こっていることを、ゼインは知っていたのかも知れない。妹を連れて逃走を図るが、両親に察知されてしまう。ゼインは家を出て、バスに乗って別の場所へ逃げる。そこが今いるここよりも、少しもマシな場所でないことは、少年にも解っているのだろう。粗末な遊園地で働いていた不法移民のラヒルが、乳飲み子の子守をさせることと引き換えに、ゼインを同居させる。ラヒルも同様に、貧しさと不法移民である身分に怯えている。冒頭にシーンは、ここからラヒルとゼインに起こることと繋がっていた。

 

妹はいつも働いている商店主と結婚をさせられ、その後に大量の出血で死んだという。結婚は僅かな家賃を大目に見てもらうためだった。ゼインが収監されるのは、妹の死を知って、商店主を刺してしまったからだ。ゼインの妹・サハルが11歳で強制的に結婚をさせられるという嘘のような展開は、物語を意図的に加速させる手段ではなくて、そこにある十分に日常的な出来事なのだ。イスラム教圏の映画では、こういう理不尽な強奪に似た結婚を目にすることがある。イスラム教徒が多様であることは解っているつもりだけれども、特に原理主義に近い宗派では、なぜ、こんなに幼い女と結婚しようとするのだろうか? この奇妙な慣習の意味は未だによく解らない。

 

この映画は予告編や宣伝文句にあるように、両親を12歳の子供が訴えるという驚きの事件とその裁判を設定している。「自分を生んだ罪」という荒唐無稽にも思われる罪状が、ゼインの決意のすべてだった。「もう子供を作るな」と裁判所で訴えるが、両親の苦悩は、子供に優しさを欠いたことではなく、自分たちの境遇と絶望の連鎖だった。そして、映画としての圧巻はそのキャスティングにある。少年・ゼインの眼差しを発見したことは、この眼差しが映画に現れることはもう二度とないだろうという確信と共に、記憶にとどめておこう。家族や近親や周囲の者を演じるそれぞれも、実際にも似たような境遇を体験している人たちであるらしい。プロの役者たちではない。そのリアリズムはイランの劇映画にも似ている。こうしたキャスティングは、劇映画が持っている物語りの強度が、史実や事実を踏み超えていく可能性を示している。この映画の様々な設定は、登場人物の実際の体験談から着想されているという。特別な史実や事実を再現しなくても、悲劇は日常的にそこにあり、物語は嫌でも前に進むしかなく、絶望は将来と同義なのだ。

 

レバノンを外務省の基本データを検索してみると、1943年にフランスから独立し、経済的には豊かだったが、いくつもの内戦で疲弊が続いている。キリスト教とイスラム教の18宗派が混在し、宗教と権力の集中を避けるために各宗派に政治の要職や議席が割り当てられている。イスラエル、シリアとの関係は、現在でも常に危うい均衡でしかない。劇中にでてくる通貨「ポンド」はレバノン・ポンドで、1ドルは約1500ポンドなので、ゼインが食料や廃品を売り買いする場面(例えば250ポンドで買える食べ物を探す、水タンクを外して1万数千ポンドで売ろうとする)での物価が解った。

 

映画のHPによると、原題:Capharnaüm(カペナウム)はアラビア語でナフーム村、フランス語では新約聖書のエピソードから転じて「混沌・修羅場」の意味で使われる、と記されている。また、実在の少年・ゼインはいま、家族とともにノルウェーに移住しているらしい。国連難民機関の助けを借りることが出来たのは、僅かな希望か。ゼインの表情が、一度だけ笑顔になるのは、ラストの写真撮影の時だ。カメラマンの指示で、不器用に少しだけ笑う。おそらく、実際の出来事でもある難民申請・第三国定住のための証明写真撮影なのだろう。

2019.08.24 Saturday

まずは映画を学ぶ学生が積極的に参考にするべき一冊

『映画で実践! アカデミック・ライティング』

著者:Karen M.Gocsik / Dave Monahan / Richard Barsam

訳者:土屋武久 小鳥遊書房 2019年3月28日発行

 

ある大学の講師室で、向かいの席の先生と学生の論文やレポートについて「どうしてこんなに簡単に書いてしまうのだろうか?」と、その傾向や特徴について話をしていた。何かについて書くということが、あまりにも簡単に「処理」されていることに、驚きと危機感を持っていたからだ。危機感とは言うまでもなく「盗用」や「剽窃」への無自覚だし、「先行研究がないので書けません」とか「参考文献が多いほうが書きやすい」などと恐れ知らずなことを口にしている学生もいる。どういう意味なのかは考えないようにしている。論文やレポートはその分量に関わらず、自分が書き残す持論であるという意識が欠如していて、文字数を埋める作業が単位取得のための手続きになってしまっているからだ。

「ちょうどいい本がありますよ」と勧めてくれたのがこの本だった。「映画で実践!」というタイトルがとても気になって、早速読んでみた。読み始めた頃に、ちょうどその大学の講師連絡会があり、訳者の土屋武久先生を紹介してもらって、「ちょうど今、お借りして読み始めたところです」と伝えると、研究室にあった本書を「そうですか、どうぞ、どうぞ」と気前よく差し出してくださった。だからというわけではなく、早速、自分のゼミの学生たちには本書を推薦した。自分と学生の双方にある当面の課題に見事に合致していたからだ。

訳者のあとがきによれば、2013年に刊行された原書のタイトルはWriting About Moviesなので、もともとは映画についての論文作法を主眼にしていたことがわかる。実は、映画について書くことの困難さを、どうやって学生に伝えたらいいものかと、ここ十数年に渡って考えていた。本書の帯が「すべての大学生必携。映画でならわかる、映画でならできる、論文・レポート作成術!」と強調しているのは、いくつかの理由があるだろう。前提としては、多くの学校で共有している、論文・レポート制作の危機的な状況があると思う。そして「先行研究をたくさん読むよりは、映画で見ることのほうが楽ちんでしょ?」という現状を反映したやや残念な問いかけと、「映画を見ることで様々な国と地域の歴史や社会の細部が見えてくるし、過去の映画は、それ故に優れた一次資料ですよ」と、映画の資料価値を再発見させようというポジティヴな側面も読み取ることができる。僕自身が授業を担当している学校や科目名を見ても、それが芸術や表現の学校だけではなく、社会学部であったり、環境教育学科であったり、文化人類学特講という科目名で映像制作について取り組んだりと、映画や映像はまさに横断的に取り込まれている。もちろんこれまでにも、研究対象の資料としての映像は活用されているし、映像制作は企画力、構成力、交渉力、取材力、撮影や録音、編集の技術など、複合的な能力を養うことに適している。映画や映像を教材とすることや、制作体験をすることはとても意味があると、機会があればそういう話をしてきた。映画や映像を専門としない学生たちが、論文やレポートによって映像の面白さを再発見してくれれば、それはとてもありがたい。あとがきによれば、英語圏ではスタンダードなハンドブックとして知られていて、300以上の大学で教科書として採用されているという。

もちろん、本書が映画や映像を専門とする学生にとっては、まさに「衝撃的」なありがたさであることは間違いない。まず目についたのは、著者のひとりにリチャード・バーサムRichard Meran Barsamの名前があったことだ。著書に1973年のNONFICTION FILM : A Critical Historyがあり、『ノンフィクション映像史』(山谷哲夫/中野達司:訳 創樹社 1984年)として出版されている。この本は直ぐに手が届くところに置いていて、頻繁に参照するので著者の名前に記憶があった。英米語圏の映画を中心に扱っている信頼できる通史であるし、個々の用語の定義や作品の解釈もわかりやすく、固有の解釈や視点も散見する。他の二人の著者との分担はわからないけれども、映画の扱いが一級であることは確信できる。類書によくあるような自称映画通による「映画で学ぶ〜」の類とは、既に明らかに違う。

読み進んでいくと、本書の主眼が、論文作成のための手順を丁寧に解説することにあることがよく分かる。そしてその例示がすべて映画の細部であり、その選択された映画もまた面白い。書くための準備と実践の方法の割合はほぼ半分で、巻末には多くの用語解説にスチルカットや図版が付されている。

 

 

 

「第1部 書くための準備」では、まず映画に親しんできたことと、映画について書くということは明確に違うし、映画への親しみが、書くことの困難さを招いていることを指摘する。食事をしながら映画の感想を出し合って楽しむことと、研究者が他の研究者たちにむけて、自分の主張をしてその論拠を裏付けることとは、大きな隔たりがある。こんな指摘から始めるところに、本書の優しさがあると言ってもいい。最初のステップは、喫茶店の雑談からもう一歩先に進むことなのだ。自分が見てきた映画のことをまずは書き留めること、それを誰かに話して聞かせること、読ませること、誰かの意見と比較すること、ある時は論議すること、こうした最初のステップでさえ、映画を専門としている学生にも困難なハードルになってきている気がする。自分の解釈を誰かに伝えることを恐れているからだ。だから独自の解釈をしないし、誰かが書いたことの受け売りのほうが安全だと考える。負のスパイラルを壊すのは簡単ではない。だから「◎どうしたら学術的に考えられるか」という項の問を、更に噛み砕いて説明しなければならない。「◎要約する」「◎評価する」「◎分析する」「◎総合する」という平易なプロセスを具体的に示すことで、少しずつ前に進んでいく。

「第2章 映画を鑑賞する」は、映画の話に終始しているので、笑ってしまうほど具体例が面白い。例えば「◎理由を考える」では、「わけがわからないと感じたことに注意を払う。これが一番大切です。」という。そして「以下に実際の作品名をあげながら、具体例をあげておきます。」として、その具体例の中には「スタンリー・キューブリック監督の『スパルタカス』では、なぜクレジットがエンディングではなくオープニングに流れるのか?」「トム・ティクヴァ監督の『ラン・ローラ・ラン』で主人公が駆けるシークエンスの一部に、なぜアニメが使われているのか?」「クエンティン・タランティーノ監督『レザボア・ドッグス』には、ヴィック・ベガがマーヴィン・ナッシュの耳を削ぐシーンがあるが、このときカメラはなぜあらぬ方向を向いているのか?」などと列挙されている。そして「こうした疑問が、実り多い再鑑賞、分析、執筆のタネとなるのです。」と、この項を締めている。明らかなのは、映画を学ぶ学生以外は、こうした問いの答えを探すことはないだろうけれども、こうした例示でも、執筆の後押しをしてくれるのが映画だとすれば、映画について書くことへの興味が喚起されることは間違いないということだ。「◎プロットを分析する」「◎ショット分析チャート」の項も、映画を学ぶ学生ならば必ずしなければならないことであり、極端に映画に寄り添った記述は生き生きとして楽しい。こうした悪ノリのような例示も、本書の魅力のひとつだ。

「第3章 形式分析」と「第4章 文化的分析」は、映画について書くことの困難なハードルを示している。僕自身も、この両者の差異、横断、越境には危険な魅力を感じている。「映画批評や評論のほぼすべてが、形式分析の形をとる」とは、映画を構成する複合的な諸要素を解体することだという。「語るのではなく、示す」ということは、撮影、音響、照明、編集、演技などの技法に関わる技術的な成果を、写実的な言語で描写して、描かれようとした概念から一旦は遠ざかり、文章によって再度その中心に近づこうとする試みを指している。形式と内容は簡単に分離できるものではなくて、そもそも複雑に絡み合っているのだから、これは高度な分析術を要求しているのだが、ここで問題にしているのはそれを言語によって描写する心構えと作法だと言っていい。厄介なのは、演出に関わる部分の分解で、これは全体を構成する物語にも関わってくる。モノとカタリの複合的な関係が世界観を形成していれば、視点と語り口、描写される細部と全体との行き来は、まさに映画のストーリーテリングの醍醐味なのだ。「◎明示的および暗示的」の項で示されているもの、つまり、映画に内在するメッセージや意味は、画面そのものには写っていないという自明の事実が、言語化を戸惑わせる。推論や思い込みは、それが切れ味の鋭いものであったとしても慎重に吟味しなければならない。こうした注意点も、うかつな論文にはしばしば現れるし、かと言って見えているものだけが詳細に描写されても、論文としては魅力を失いかねない。

続く「第4章 文化的分析」では、不可視の領域をどのように手繰り寄せていくかが記されている。プロフェッショナルによって吟味され、巧妙な技法で可視化されたイメージは、見ているだけでその魅力を受容してしまう。それは同時に、メッセージを潜在させたり、意図を見えにくくしたりする。映画にとっては隠すこと、見せないこともまた、演出の重要な要素である。文化的分析はもちろん映画批評に限って現れるわけではなく、文学や絵画、舞台など様々な表現に現れるいくつもの層を、横軸や縦軸を基準に考察することは、理論的な枠組みを作る基本である。この項では〈マルクス主義〉〈フェミニズム〉〈人種とエスニシティ研究〉〈クィア理論〉などを横軸の大項目としてあげて、映画のジャンルやストーリーの定形と対照して論じている。言うまでもなく、国や地域の歴史や宗教、文化、言語、慣習、風俗はその国を熟知していれば容易に理解できる事柄であっても、観客には縁のなかった国の出来事は、映画の中で何が起こっているのかさえも理解できないことがある。例えばアイスランドが舞台の映画で、馬がある地域とどのように関わって来たのか、歴史的な悲劇として何が起こったのか、隣国との関係はどうだったのか、といったことは、描かれた地域の人達にとっては常識である場合、映画では丁寧に説明されないことはよくある。そのことを知っているアイスランドの研究者は、より優れた映画の批評が可能なのだろうか? このことは、僕が研究室にいた20代前半に、担当の先生に尋ねたことがある。僕も自信のある回答を持っていない。映画のパンフレットに寄稿される、その国や地域の研究者たちの論考はしばしば魅力的ではある。しかし、それらが、スクリーンに現れた事象の補足説明にとどまっていることもある。ロシア史家によるロシア映画論と、ロシア映画研究者によるロシア史分析は、いくつもの交差点を持ちながら相互補完的に魅力的である。それはどちらか一方の立場の人が特権的に専有できるものではないし、論議の広がりは映画にとってマイナスであるとは思わない。本書でも指摘されているように、公開から時間が経ってから大きな評価を受ける映画もある。いずれにしても重要なのは、論者の立場を表明することだと思う。そのためには理論的枠組を予め示すことができるように、強固な基礎やフレームを作り上げることだ。

 

「第2部 どのようなプロセスで書くのか」は、具体的な作業の手順が書かれているのだが、ここでも解りやすいトピックを立てて、段階的に少しずつ前に進ませてくれる。本当に親切な構成だと思う。内容については細かく触れることはしないが、「第9章 文体に気を配る」は、翻訳作業が大変だっただろうなと推察する。動作主(actor)と動作(action)との関係を明確にするために、語順を整えたりしなければならない、という指摘なのだが、原文が英語なので、ここでは英文を示していたほうがわかりやすかったのでは、と思ってしまう。おそらく日本語の文法でこのニュアンスを伝えるための工夫がなされているのだと思う。同様に「抽象名詞はやはり抽象的である」や「抽象名詞はロジックを曖昧にする」という指摘も、語句の選択や語順の変化を補うためにも例文は原文も併記してあれば良かったのかも知れない。いずれにしてもこの章では、わかりやすく、簡潔な文章にするために、もったいぶったり、過剰な言い回しを避けるという原則が書かれている。とても重要な項目だと思う。

最後に、最終章に当たる「第10章 推敲」の項で気がついたことを指摘したい。推敲という用語は「読んで字のごとく、『もうひと推ししたり、敲いたり』することが必要なのです。」と訳出されていて面白い。辞書的には推敲=polish, revise, improveなどが挙がっているけれども、章のタイトルはrevising your workなのでreviseなのだけれども、「読んで字のごとく」に相当する原文はどのようなものだったのだろうかと興味を持った。こういう言葉の選択が、翻訳作業の面白さでもあるのだろうと思う。推敲、校正、校閲、校訂、訂正、改正、いずれも文章が人前にさらされる前に、繰り返し確認し、再度見ることで誤りを直すだけでなく、より良く、わかりやすくするための手続きであって、これが一番大切な作業なのだ。(丁寧に見ていても、トピックセンテンスが一度だけトピックセンスになっている、などという見落としはあるものです。)

参考資料の「図解による映画用語解説」はとても解りやすい。そして選ばれた図版にもユーモアがある。例えば「クローズアップ」の説明では、他にいくらでもクローズアップの好例や美しいカットはあるはずなのに、バンクシーの『Exit Through the Gift Shop』のワンカット(ミスター・ブレインウォッシュの顔)が選ばれている。このクロースアップは美しくないし、意図的に冴えない。これはおそらく「超クローズアップ」の説明でスパイク・リーの『Do the Right Thing』の口元と時計のカットと対応しているお遊びなのではないかと思う。

 

これまでに、論文を書くための参考文献や文章作法の本もいくつかあたってみたが、それこそ、作業や手続きのための指南書であってはなんの意味もない。かと言って、本格的な学術論文のルールを示したものは、膨大な作業量を誇示するようで、取り組み段階のゼロから1〜2までのハードルが高すぎる。例えばウンベルト・エコの『論文作法』を薦めたこともあるのだが、あの数年を後悔している。この本はとても面白いけれども、冗談や皮肉も多くて真意を探るのにひと手間かかる。博士論文以上の学術論文を対象にしているので、調査や、資料作成、作業計画。各種カードの作り方など、全体の3分の2に及ぶ準備段階の作業手順の詳細な説明で、絶望的な気持ちになること必至である。学生に「書くな」と言っているようなものだった。この本の前提はイタリアでの大学の大衆化に抗う姿勢であって、「.7.指導教員に利用されるのを回避するには」 などという項目もわざわざ設けてあり、同業者や学者を挑発しているようにも読める。いや、そういう記述がいくつもある。それでも、学生や若い研究者たちには「君は指導教員に私信を書いたのではない。潜在的には人類宛に一冊の本を書いたのだ。」といった記述で叱咤激励している。「引用、敷衍説明、剽窃」の項目もあり、それぞれの誤りを例示しながら解説しているので解りやすいはずなのだが、その例示がまた難解だったりする。読み物として楽しめるが論文作法としては奇書の類いかも知れない。

ここ数年は、後悔と反省を踏まえて、基本的な論文作法や表記のルールについては、京都精華大学の佐藤守弘さんがweb siteで公開している「学術論文を書くために」(2012年改訂版)http://web.kyoto-inet.or.jp/people/b-monkey/howto.htmlを学生には紹介するようにしていた。それでも、こういう丁寧なサイトを予め見てくれているのかは疑わしい。「引用は多いほうがいいんですか?」などと問われると、上述のエコとは別次元で悩ましい。

そうなると、作業前に推薦するのは解りやすい文章の作法に落ち着いてしまい、本多勝一の『日本語の作文技術』をまずはクリアーしてほしいと願っていた。本多勝一が示す作文技術には、文章の構成を理解して整理すれば解りやすくなる、という基本的な姿勢が一貫していてる。主・述や修飾関係を近づける、語順を入れ替える、テンのうちかた、改行の考え方、カッコの使い方など、そのまま自分の文章の推敲に応用しやすいところが優れている。一方で、外国人の人名表記など、分かち書き(・、=、)のルールの説明は現在普及しているものとは違っているし、数字の4桁区切りを主張しているところも、本多らしいのだが、今、それを使うとかえって分かり難い。それでもこの「技術書」は現在でも学ぶところが多い。

エコの『論文作法』がそれでも十分に魅力的でカッコいいのは、第讃蓮,爐垢咫,亮,琉貶犬書かれているからだ。この項は「本書のむすびとして二つの考察を行いたい。論文を作成するのは楽しむことを意味するし、論文とは、何も無駄にはならない点で、豚みたいなものなのだ。」と始まる。日本人であれば、挑発的に「クジラみたいなもの」と書くだろうか? 論文を書くことの楽しさは、それが「一種のゲーム、賭け、宝探しとして体験できること」であるし、「挑戦者は君なのだ」と自覚できる瞬間の悦びに似ている。

今の学生にとっては、書くことが苦痛でしか無いか、あるいは楽勝で「処理」できる類の処世術のように誤解されていることが、何よりもひどく残念なのだ。

 

 

この『映画で実践! アカデミック・ライティング』を、論文作法の参考書に推薦することはもちろんであるが、自分自身が発見することが多かった。自分の文章を振り返ったり、これから書くものを推敲する時には必ず参照することになるだろう。

 

土屋武久先生、ありがとうございました。「訳者あとがき」にある危機感は僕も全く同感です。また、あのBARみたいな先生の研究室でお話させて下さい。ごちそうさまでした。

2019.07.31 Wednesday

嘘のようなほんとうの話があるように、現実が映画を追い越していく

『新聞記者』 監督:藤井道人 2019年 113

 

公開からひと月たって、ようやく観ることが出来た。

近未来でも過去でもない、進行中の現在が見える。しかし、日々の紙面を読んでいると、現実はすでに映画を追い越しているかも知れないとさえ思う。

内閣情報調査室は、まるでサイバーテロの巨大犯罪組織のような空気で描かれているけれども、大手メディアからSNSまでチェックしているという現実の話と重ねると、この描写も過剰ではないのだろう。田中哲司が演じる内調室長は、振る舞いも台詞も、政権を守る官僚トップの心情を徹底して反映している。部下の杉原(松坂桃李)にこうつぶやく。「お前、子供が生まれるんだろう?」。ヤクザ映画の台詞で「お前、娘がいたな」などという脅し文句は、「母親が、病気なんだってな」と並んで常套句みたいなものだが、こういうえげつないやり取りも、さもありなん、と思わせる。

ラストシーンの後味の悪さは、この問題が、新聞社と政府との関係だけではないことを示唆している。誰にでも降りかかるかも知れない生き延びることへの圧力は、個人の力では抗し難い。

 

情報は常に操作されているとか、SNSを使っている時点で個人情報は公開されているようなものだとか、授業でもそう話す機会があると伝えてきたけれども、こうして具体的な設定で、しかも巨大な力と大量の人員を投入して組織的に行われている状況を見せられると、ドキュメンタリーでは伝わりにくい緊張感を得ることもできる。

 

今朝(2019.7.31)の東京新聞5面「私説 米国を守る地上イージス」では昨年5月に発表されている「太平洋の盾・巨大なイージス艦としての日本」という論考に触れている。アメリカの保守系シンクタンク「戦略国際問題研究所」によるもので、日本に配備される地上イージスが、ハワイ、グアム、東海岸などの地域を守るためであることが明言されているという。週刊金曜日でもこの事実を指摘していた記事を読んでいたが、こんな重大な事実は、選挙前にも大きく取り上げるべきだ。吉本興行の問題も、安倍政権との癒着に話が及ぶとテレビはトーンダウンし、「N国」や「れいわ」の話題にシフトしている。国民はしばらくすれば忘れてしまうのだと言わんばかりに、森友の国有地払い下げ問題は不起訴になるし、加計学園もその後の続報はすっかり聞かなくなった。下世話な話題を更新することで、忘れさせることを加速していく。

「正義」を語ることが難しくなった時代に、「事実」や「真実」さえその自律が危ぶまれる。

 

映画を観ながら、2017年に公開され、韓国の民主化運動を描いた『1987、ある闘いの真実』を、何度か思い出してしまった。なんとも後味の悪い反芻だったが、こうして記憶が呼び起こされるのも映画を観る意味だと思う。

2019.03.17 Sunday

この愛すべき映画は、そもそも観客は映画の何を面白いと思っているのかを、あらためて考えさせる愉しみを孕んでいる。

 

『立ち上がる女』

原題:Woman at War

監督:ベネディクト・エルリングソン 出演:ハルドラ・ゲイルハルズドッティル

2018年 アイスランド/フランス/ウクライナ合作 101

 

 観終わった後の爽快さと、奇妙な既視感はどこから来るのだろうと考えていた。愉快犯とか知能犯の見事な仕掛けを見せられたような感じか? 巨悪を翻弄するような立ち回りがそう思わせたのだろうか? いや、描かれている人物やストーリーによるものではなくて、もっと構造的な面白さだったような気もする。そう、バンクシーが街で描いた落書きを見たかのような既視感。あの「Something in The Air/Flower Thrower」と呼ばれる、石や火炎瓶ではなくて花束を投げようとしている男の姿を見た時に、器物損壊ではあるけれども、ニヤリとしてしまうあの面白さではなかったか。あるいは、もっと単純に「この文章は明朝体で書かれている」という一文のおかしさにも似ていないか。文字面には誤りがないけれども、よく考えてみると「間違っている」という感覚に、共通点がありそうだ。

 だから、この映画を素晴らしいと思うのは、環境破壊に立ち向かうひとりの女性活動家の姿ではなくて、その社会的な問題意識を背景に押し込んでしまうような、まさに映画的な驚きによる。それは、描かれる空間は常に映画的でしか無いのだということを、繰り返し呼び覚ますような刺激を持っている。

 

 その女は、おもむろに洋弓を空に向けて、ワイヤーの付いた矢を放つ。平原にそびえる鉄塔はどうやら送電のためにそこに建てらているらしい。女の矢は3本の送電線を飛び越え、ワイヤーに接触したことで火花を飛ばしている。大規模停電につながるような暴力的な行動に驚き、そこからの逃走劇が、アクション映画でも観ているような緊張感を伴う。大変なことが起こりそうだ。岩場のくぼみに身を隠す女の背後から、ヘリコプターが浮上してくる。007のような映像だと思ってみていた。実際、この女の身のこなしは、軍隊経験があるのではないかと思わせるほど見事だし、思いつきの暴挙ではないことが解る。「これで5回目だ」というのは、たどり着いた家の主である羊飼いの男だが、女がこの土地とも縁があるらしいことが解ると、車を貸して逃走を手助けする。そして次第に明らかになる女の素性や行動の真意は、グイグイと映画を牽引していく。環境破壊につながるアルミニュウムの精錬所に打撃を与え、撤退に追い込みたいという強固な意志が、女に破壊行為を繰り返させているようだ。

 

 冒頭から驚かされるのは、映画音楽だと思っていた音が、その画面の中に演奏者や歌い手が現れ、そこにピアノやドラムセットが置いてあることが、圧倒的に不自然であるにもかかわらず、一連のカメラワークであっさりとその矛盾を回収してしまう大胆さだった。通常は映画を見ている観客は、映画音楽を誰が演奏しているのかなど見ることがない。一般的には映像の編集がほぼ終わった時点や、ラッシュ段階の映像を見ながら、音楽や効果音は付けられる。例外的に音楽を先行してつくるということはあるのだが、付けられた音楽は、完成した映画の観客だけが聴くことが出来るようになっている。つまり、撮影時の風景には、観客が聴くような音楽は流れていないし、演奏者も見当たらない。それは古典的なミュージカルでもそうで、歌ったり踊ったりしている時の音楽は、同期のためのプレイバックではあっても、その場に演奏者がいるわけではない。この映画の素朴な驚きは、女性3人の合唱隊が唐突に道路や河岸にあらわれる時にも、繰り返し呼び起こされる。そして、これは映画なのだと現実に引き戻されながらも、その非常識な空間構成に感心してしまうのだった。

 

 ところで、アイスランドでは、どこかの合唱団に所属することは珍しいことではないらしい。女はそういう市民合唱団の指導をしている。つまり、とても正しい日常を送っているように見える。この合唱団の歌も、効果的と言うよりは異化的に作用している。女の素性とテロリストのような行動が、簡単には結びつかない。密かに女の行動を支持している官僚の男も、携帯電話をフリーザーにしまってから密談を始める周到さも、よく考えると不思議な設定が、最後まで持続する。

 

 また、主人公の「山女」ハットラの双子の姉であるアウサが登場することで、一層話が面白くなってくる。ヨガや瞑想を楽しんでいる姉は、妹がウクライナから養女を引き取ることになった経緯を聞きながら、自分はインドに修行に行く計画があることを伝える。このディテールも、平和を愛する姉の、非戦の意志を覆す前提として面白い。何しろ、この姉妹がどちらか分からなくなるほど似ている。観ている間に混乱してしまう箇所があるのだが、ハルドラ・ゲイルハルズドッティルが二役を演じていたことは、後で知ったことだった。それがトリッキーということではなく、双子という設定もまた、映画にとっては魅力的な細部である。そして、ドローンを弓で射抜いたり、最後には爆弾まで自作して、ゲリラ兵士のような巧みな逃走を繰り返すハットらという山女は、いったい何者なのかが、実はよくわからない。姉とともに独身であり、子供がいないという事情も、何ひとつ説明されない。それでいて、とても魅力的な人物たちなのだ。もちろん、何度も事件に巻き込まれる自転車バックパッカーも、荒唐無稽な展開を生む重要な役割を担っている。

 

 ウクライナからの帰路で、路線バスが道路に溢れた水で立ち往生し、川のような道路を歩き出す乗客の後ろ姿が、美しく思い起こされる。バスから降りる乗客の中に、何度も登場した楽団のメンバーが、バスドラや楽器を抱えながら歩いていたことを忘れずに記憶したい。彼らは映画音楽の演奏者ではなく、この映画の重要な登場人物たちだったのだ。

 

 『馬々と人間たち』を観たのは2014年だった。アイスランドの過酷な自然環境と、馬とともに生きる地域の人々の姿を思い出す。この映画では、馬を中心としたそれぞれの生活が愉快に描かれていた。何年も何十年もこうして、少し小柄な地域の固有種の馬と暮らしてきたのだろう。葬式の時の、何ひとつ変わらない空間がその閉鎖性を伝えていて愉快だ。事故死した人がそこから欠けているだけなのだ。おそらく教会での座る場所も皆決まっていて、少しずつ、誰かが死ぬたびにポジションが変わってきたのだろう。そして何よりも馬の大きな瞳に映る人間の姿が印象的だった。場面転換で何度かこの方法が使われていた。

 この映画と似ているところといえば、道に迷った乗馬体験の客を救うために、吹雪の中で馬の腹を割いて、中に潜って寒さを凌ぐシーンがある。『立ち上がる女』では、ハットらが逃走の際に、羊の死体を見つけて、それをかぶって捜索を逃れるシーンがある。生き残るための知恵と行動が、二つのシーンを結びつけていると思う。同じ監督が、新たな映画で全く別の魅力を見せながら、どこかで通底している愉快犯的な構造が嬉しい。本当に面白い映画なのだ。

2019.03.16 Saturday

ジョン・アルパートの映像にはあって、マイケル・ムーアに欠けているものがあるならば、それは、こういう繋がりなのかもしれない。

『カメラが捉えたキューバ』

原題:CUBA and the Cameraman 監督:ジョン・アルパート DCTV

2017年 154分 NETFLIX

 

 友人の服部かつゆきくんが「ジョン・アルパートのキューバがNET FLIXで配信されてますよ」と言うので、早速チャックしてみたところこの映像があった。「NET FLIXオリジナル・ドキュメンタリー」ということになっているが、もちろんオリジナルはJon AlpertとDCTV(Downtown Community Terevision Center)による一連のキューバ取材がベースになっている。2017年制作で154分の長編ドキュメンタリー映画になっている。この配給関係がNETFLIXオリジナルの所以だと思う。ジョン・アルパートとDCTVの作品は、1970年代のアメリカ国内の取材から始まり、その後、国内の問題と並行して、ベトナム、フィリピン、ニカラグア、イラク、アフガニスタンなど、紛争が絶えない地域の、特に市井の人々を通じて、ごく日常的な姿を捉えた映像を残している。こうした映像は当時のケーブルテレビやパブリックテレビジョン(PBS)の番組として放送されていたもので、30分から60分といった枠の長さに対応している。制作形態としては、自主企画として制作したものが買い上げられたり、局の依頼で制作されたものもあるようだ。初期の『Chinatown:Immigrants in America』(「チャイナタウン」1976年60分)や『Helthcare:Your Money or Your Life』(「医療制度—金か命か」1977年60分)などは、アメリカ国内の移民や貧困層の問題を積極的にとりあげている。既存のテレビ局が積極的に無視していた見えない市民の層を、当時はようやく一般の人でも買えるようになったが、それでも高価であったビデオカメラで取材している。基本的な取材態度は、ベトナムでもキューバでも変わらない。このことは拙著『戦うビデオカメラ』(「4.ビデオジャーナリストの方法」)で詳しく書いた。ジョンと津野敬子さんが二人でスタートした小さな市民ビデオの活動は、やがてビデオジャーナリズムの先駆けと評され、マイケル・ムーアもジョンの手法を参考にしたらしい。もっとも、当のジョンアルパートは、そのことを気にしていたらしく、カメラ片手に、矢継ぎ早に質問し、どんどんと市民の生活に分け入っていくその取材姿勢を反省していたらしい。この映画では、小学校の授業中に、勝手に生徒たちに質問を始めて先生に迷惑がられるところがあるが、こんな取材態度も僕は憎めない。わかりやすい質問しかしないし、自分が見たものだけを率直に伝え続けるジョンの人柄なのだと思う。ちなみに津野敬子さんは初期の作品を放送した後に、フレデリック・ワイズマンの『病院』(1969年)に同じドクターが登場する場面を見つけて、「ワイズマンは常にわたしたちの前にいた」「一番気になる作家はワイズマンだった」と述懐している。(『ビデオで世界を変えよう』津野敬子・著 2003年 p64)

 

『カメラが捉えたキューバ』は映像を見ていると解るように、ジョンとDCTVがこれまでに何度も取材したキューバのシリーズがベースになっている。オリジナルは

『Cuba the People:Part1(1974)』、『Cuba the People:Part2(1975〜80)』、『Cuba the People:Part3(1979)』、『Cuba’80(1990)』、『Cuba : Between a Block and Hard Place(1993)』で、1995年以降の4回の取材(1995,2000,2006,2016年)映像は初めて観たものだった。2016年の映像は2回、フィデル・カストロと再会する時と、2016年11月26日にフィデルが亡くなった後の葬列を追ったものだった。何よりも素晴らしいのは、病気と引退が伝えられてから、ほとんど映像に残ることがなかったカストロの姿が、数枚の写真に残っていることだ。この時の再会ではビデオカメラは持ち込めなかったようだ。それでも、遠方からやってきた友人を迎え入れるように、カストロはジョンと会う時間を作り、二人が並んだくつろいだ雰囲気の写真が残されている。ジョン・アルパートとはこういうひとなのだな、とあらためてその人柄に触れた気がした。

 ジョン・アルパートとDCTVをアメリカ国内で一気に有名にしたのは、初期のキューバ取材である。最も初期の取材は、スコット・ヘリックという平和和活動家が、フロリダから自分のヨットでキューバに楽器を届ける、という活動に同行したもので、1972年に5月にキューバを訪れ、ハバナで5日間待たされて上陸している。もちろん、当時はアメリカとキューバ国交を断絶している。撮影時の写真を見るとジョンが持っているのはソニーの「ポータパック」だから、白黒1/2インチ、オープンリールでの撮影だったようだ。この時の映像は1972年9月に『世界市民丸、平和のためにキューバに向かう』というタイトルで発表されている。会場は、ヴァスルカ夫妻が運営していたアートスペース「キッチン」だったという。

 その2年後にキューバ政府の取材許可を得て撮影されたのが、『Cuba the People:Part1(1974)』である。国交のない国から許可が出た理由が、キューバ大使館のチームと毎週のように野球をしていたからだ、というエピソードが面白い。カストロの単独インタビューは、当時発売されたばかりのJVCのカラーカメラで撮影されている。映画の中に乳母車に機材を載せて移動する姿をカストロが面白がっているシーンがあるが、当時のカメラはもちろんVTR部がセパレートだし、プロ用でなくても相当な重量だった。

 ジョンたちの取材が印象的なのは、同じ人物を時間を経て何度も撮影していることだ。農夫の兄弟、グレゴリオとクリストバルは、ジョンと腕相撲をする姿が何度も出てくるし、クリストバルが咽頭がんになった時の映像や、二人が亡くなった後も、その妻を訪ねている。街でブラックマーケットの仕事をしていたルイスも何度も登場し、そのたびに別の仕事をしていたり、刑務所に服役していたりするから面白い。子供の頃にインタビューをしたカリーダは、その後二人のこの母となり、最後に訪ねたときはフロリダに移住していて、残された息子と再会している。こうした取材の厚みは、ジョンとDCTVの特徴でもあり、それはベトナムでも同じようなシーンを見たことがある。キューバの情勢が変化し続け、国交断絶の冷戦期や、経済封鎖による困窮の時期、やがて観光客が訪れるようになると、観光業者は次々に豊かになり、街は一変する。そんな中で変わらない姿を見せるルイスは、職業を変えながら、したたかに生き続けている。映画には出てこないが、あのバナナ園の女達はどうしているだろうか、などとこれまでに見た映像を勝手に思い出していた。

 この映画はビデオジャーナリストの活動記録としても、ビデオジャーナリズムの歴史としてみても面白い。もちろん、キューバ史の一つの側面としても。彼らの取材が先駆的であったことは、この映像を見れば解る。そして、娘のタミを一緒に連れていた時、カストロにタミの学校のクリンスキー先生あての欠席届にサインしてもらうシーンがあるが、こうしたユーモアが、取材対象の印象にも残っているのだろうし、カストロと最後まで繋がっていたのも納得ができる。クリンスキー先生は、カストロの直筆の届けを見てどれだけ驚いたことだろう。「クリンスキー先生、欠席してごめんなさい。フィデル・カストロ」と署名されているのだから。

 

DCTVのサイトは

http://www.dctvny.org

 

『ビデオで世界を変えよう』津野敬子・著 平野共余子・構成 2003年 草思社

『戦うビデオカメラ』佐藤博昭・著 2008年 フィルムアート社

 

 

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