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2020.01.24 Friday

この映画には彼らのダンスが路上に在る理由しかない。

『ダンシングホームレス』

監督・撮影:三浦 渉 プロデューサー:佐々木伸之 Tokyo Video Center

2019年 99分 

 

これまで、ダンスが劇場ではなく街や路上に出る理由はなんだろうか?と考えていた。

この映画には彼らのダンスが路上に在る理由しかない。

 

試写会を終えた会場で「かっこいい映画を作ったね」と、監督の三浦 渉さんに伝えた。

ドキュメンタリー映画を観て、久しぶりに「かっこいいな」と思った。監督をよく知っているから持ち上げているのでも、その成長ぶりに感心しているのでもなくて、本当にかっこいい映画だなと思った。

「観ればわかるでしょ?」と言われているようでもあった。ホームレス、路上生活、非正規雇用、社会的弱者、生活保護受給と少なくとも社会問題に片足を突っ込んでいる内容であっても、ナレーションやテロップは極端に少ない。観ればわかることは言わないし書かない。あるいは必要以上の情報を加えないし、徒に感情を煽るような言葉や音楽もない。登場するダンサーたちもそれぞれ名前と年齢が文字で伝えられ、それ以上の情報は映画の中で、取材者である監督との会話で聞こえてくる。「新人Hソケリッサ」の主宰者・アオキ裕キ氏のインタビューは、簡潔で歯切れがいい。彼が言うように路上生活者の身体表現がとても面白いのだ。それ以上の動機ではない、と彼は言う。彼自身も、商業ベースで消費される「ダンス」や振り付けに疲れたのだろうか? その多くは語られない。だから観ればわかることしかわからないし、推して知ればいい。それでいいのだと思うし、映像以外の情報を最小限にした演出は、アオキ氏の考えと共鳴していて潔い。また、ホームレスのダンサーたちとそれぞれ向かい合う時の、独特の間合いとか距離感とか視点とか、時々不躾にも聞こえる質問がとてもいい関係を見せてくれている。訓練してできるようなものではなくて、これは、監督が持っている生来の空気だろうなと思った。

 

もちろん、路上生活者ではない我々から見れば、何もかも失って生きている人たちの極限の身体などと、プロの表現者がその限界突破をアウトサイダーに求めるような態度にも思われるかもしれない。

表現は何度も繰り返して、そうした外部の突発的な表現を取り込もそうとしてきたし、理屈をつけるならば、原初的な感覚や極限状態の表現などを突破口として、あるいはノイズとして取り込んできた。あるいは土方巽の舞踏は「身体であることの不自由さ」や、躍動ではなくむしろ抑制に近い動きを独自に取り入れていた。よく知られているように、あの舞踏に特徴的な中腰のゆっくりとしたリズムは、泥に足を取られる田植えに似ている。生活者の動きやテンポは日本独自の舞踏として発展した。

僕は学生の頃に精神病院での芸術療法に興味を持っていたし、絵画や陶芸だけではなくて、演劇やダンスも療法に取り入れらていることを知った。舞踏家・石井満隆のドキュメンタリーを制作した入り口は舞踏療法だった。そして彼の後を追いかけるように撮影していったことで、その思い込みは見事に打ち砕かれ、「誤解」が編集の際のキーワードだった。そういえば、アオキ氏のワークショップは僕が観てきた舞踏のワークショップの段取りと似ているな、と思った。まずは気持ちを解き放つこと、鏡のように人の動きを真似てみること、そして、今、自分の周りにある様々なものを感じて、反応すること。つまり、インプロビゼーションの感覚を体で表現してみる。準備運動などの手続きはあるものの、どんな反応や動きでも、それを参加者全員が受け入れていた。僕の作品では1985年はひたすら観ることに費やし、86年は石井満隆が参加する様々な場所にカメラを持って出かけていった。若い舞踏家や学生たちが参加する合宿のワークショップでは、田んぼで突然踊りだした。檜枝岐パフォーマンス・フェスティバルでは、神社や河原や路上がその舞台だったし、ほとんど野宿のような状態だった。舞踏療法を取り入れ、夏祭りや冬祭では患者たちと一緒に踊っていた、あの素敵な陶芸小屋や畑があった開放病棟は、もうない。

そんな事も思い出しながら観ていた。

 

ダンスカンパニーが映画を作ることはこれまでにもあった。僕はダンスの専門家ではないけれども、有名な作品はいくつか観てきたつもりだ。かつてピナ・バウシュの『One Day PINA Asked…』(1983年)は、石井満隆のドキュメンタリー制作の参考にしようと初めて観たダンスドキュメンタリーだった。ピナ・バウシュは来日したときの舞台も観ていたし、『ピナ・バウシュ 踊り続ける命』(監督:ヴィム・ベンダース 2012年)もとても興味深いと思っていたけれども、ダンスが劇場のような舞台ではなく街や路上に出ていく理由は、今ひとつつかめなかった。3Dで観る理由も。初期の『嘆きの皇太后』(1989年)は、街というよりは極めて舞踏的に解釈された風景が繰り返されていた。乱暴に言えば寺山修司の映画に出てくる風景のように、極私的に解釈された風景がダンスに寄り添っている。いかにも、という作品はダンス×映像の典型の極だったと思う。それはベルギーのローザスでも近いものがあって、廃墟となった学校や森の中の円形の舞台装置は、とても美しいけれどもダンスの背景としてはとても優れすぎている。「Dance for Camera」というシリーズに収録されているのは、いくつかのダンスカンパニーによる短編映像で、むしろ映像のためのダンスであり、映像×ダンスという逆転の比重がよく分かる。

一方でイギリスのDV8フィジカルシアターは、初期のフィルムから街や労働者、同性愛者やマイノリティーが意識されていた。パブや路上で突然繰り広げられる男たちの汗臭そうなダンスは『エンター・アキレス』(1997年)でもそうだったし、『The Cost of Living』(2006年)では、ダンサーたちが主役の短編劇映画に仕立て上げられていた。

 

そう、『ダンシングホームレス』を見て、かっこいい映画だと思ったのは『The Cost of Living』を思い起こしたからだった。冒頭やラストがスタイリッシュであるからではなくて、むしろほとんどが泥臭く、ダンスと映画のコンセプトが見事に内容と合致しているからだ。

最近のダンスや舞踏の動向にはあまり関心がなかったけれども、この映画でまた身体表現への関心を刺激されてしまった。

 

ありがとう、三浦くん、本当にいい映画だと思いますよ。

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