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2020.01.15 Wednesday

今、テレビは「ただの現在」でさえないのだろうか?

『さよならテレビ』

監督:土方宏史 プロデューサー:阿武野勝彦 

制作/配給:東海テレビ 配給協力:東風 2019年 109

 

高校での授業の冒頭でこの映画を紹介した。合わせて東海テレビが、テレビ局発の長編劇場用ドキュメンタリー映画制作の先鞭をつけて、この映画が2011年から続く12作目であること、そして、僕がこれまでに観た7作品がどれも独自の視点を持った素晴らしい映画であったこと、テレビ局発の長編ドキュメンタリー映画は、大きな可能性があると思わせてくれたことを話した。

しかし、この映画を紹介する時に、何かを言い澱んでしまったのは何故だろうかと考えた。

 

プロデューサーの阿武野勝彦さんとは、平和・協同ジャーナリスト基金賞の場などでお会いしたことがある。その時にも、〈地方のテレビ局が作ったドキュメンタリー番組は、全国配信される機会が極端に限られていて、そうであれば、劇場公開するほうが、長期間の全国展開も可能だし、何度でも観てもらうことができる〉といった趣旨の話をされていた。その通りだと思うし、東海テレビに続いていくつかの地方局が、長期取材したテレビ番組を劇場用に再編集して公開している。

 

12作目の劇場公開作品は、いくつかの話題が先行していたが、ようやく観ることができた。そして、この映画の後味の悪さをどのように説明したらいいのか、しばらく考えていた。「慢心」という言葉さえ観終わった後に思い浮かべてしまった。テレビがテレビを描くという自己言及の構造が、宣伝チラシにあるような「裸のラブレター」であると思っているとすれば、テレビはまだ思い上がってはいないかと思ってしまう。しかしその思い上がりをテレビ自体が描いてしまうこと、それがこの映画の狙いのひとつでもあるとすれば、不可解な入れ子の謎解きを命じられているようで不愉快ですらある。その怒りこそがテレビに必要なのだと、煙に巻かれるだろうか? 

テレビ局が舞台になったとても良くできたドラマだと言ってもいいかもしれない。実在の人物が実際の仕事を演じるという劇映画もある。その是非を問うているのではなくて、フェイクであるか、そうではないのかなどと論じあっている観客を高みから見ているような、テクニシャンの笑みが見え隠れする。そう考えると、ラストシーンの会議室でのやり取りは、77分だったというTV版にも入っていたのだろうか? と思ってしまう。

 

この映画は、どう考えても場当たり的な企画書から始まる。「今のテレビはどうなっているのか」と問うならば、その企画書の後段には何らかの仮説が書かれていたのだと思いたい。しかしこの粗末な企画書で撮影を始めることさえ、テレビ的な仕掛けなのだろうか? 何が撮りたいのか、それで何がしたいのかわからないと、現場のスタッフや上司からは問い詰められる。「まずは撮るのをやめろ」と叱責されたカメラマンは、「約束通り」に記録が続いたままでカメラを床に置き、音声だけが聞こえてくる。本当にこんなふうにこの映画は始まっていいんだろうかと半信半疑だった。そこで立ち止まり、作戦を立て直しているように見える。その後に、いくつかの約束事がかわされ、報道局の内部が映し出される。

「テレビとは何か?」という問いは「テレビとは何かに自ら言及するテレビ」という、仕掛けによって、複雑な構造を提示する。それは、「TVの今はどうなっているのか」という企画書の言葉に呼応する。メインから降板させられるキャスター、テレビがジャーナリズムであることの原則を信じている制作者、アイドルオタクで失敗ばかりしている契約社員のディレクター、と3人のそれぞれがテレビの現在を問うていることは解る。もう何十年も続いている局と委託・契約の制作体制が、ジャーナリズムとしての使命など置き去りにしてきたことは、日々の数字をノルマのように伝える姿を見れば、それが末期的であることも解る。「ぜひネタ」といった一見情報番組のような扱いが、スポンサー案件であることも理解できるし、ドラマ中のタイアップCMなどは地上波でも日常的に現れる。疲れていると思う。悪循環から抜け出す手立てを探っている人もいると思う。それで? と残酷な問いをあえて突きつける。

 

そもそも、メディアの自己言及は、そのメディアが疲弊した時に、くり返し起こっている。それは映画でもそうだし、演劇や文学でもそうかも知れない。70年代のテレビマンユニオンも、そこを去った佐藤輝の仕事も、佐々木昭一郎も木村栄文も知っているだろう人たちが、今、この映画で問うているものは何だろうか?

 

かつて「テレビとは〇〇である」といくつもの言葉をぶつけて、それを実践しようとした人たちがいた。『お前はただの現在に過ぎない』では「テレビとはなにか?」という問いに対して18の提言が記されている。

 

テレビは時間である。 現在である。 液体である。 生理である。 ケ(日常)である。 ドキュメンタリーである。 大衆である。 わが身のことである。 ジャズである。目で噛むチューインガムである。 第五の壁である。 窓である。 正面である。 対面である。 参加である。 装置である。 機構である。 非芸術・反権力である。

 

今、テレビのことを表すならば、何だと言えるだろうか?

 

テレビを信じるなとテレビマンが言うかのような仕掛けは、「ドキュメンタリーは嘘をつく」と言い切った森達也氏の映画に近いようで遠いのかもしれない。そもそもドキュメンタリーという言葉は「事実の創造的劇化」を許容していたし、再現であっても、それが誠実であれば手法の一部であった。だから、ドキュメンタリーは事実をベースにしていても、事実そのものではない。それは「真実」を描こうとする手続きであるといえば詭弁だろうか? そうではなくて、事実そのものを切り取ってフィルムに定着したとき、そこには既に制作者の恣意性が介在するという自明の論理は許容されてこなかった。TVドキュメンタリーは「捏造」や「やらせ」といった言葉を恐れ厳格に、自らを追い詰めていっったととも言える。だから、海外のドキュメンタリーに比べて自由度も少なく、むしろ狭量な自己検閲に苦しめられてきた。

 

僕は、テレビはもう終わってしまうとは思っていない。優れた番組やその作り手たちがいることも知っている。だから、総じてダメだと言い続けている。

テレビが「現在」であろうとしているか? 「液体」であろうとしているか?「生理」であろうとしているか? とあらためて問いたい。時流の中のメディア的な劣勢を憂う前に、テレビにさよならを告げる前に、やりっきたテレビの姿をもう一度見せてほしいと願う。

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