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2018.06.11 Monday

立派な映画館で観てしまった居心地の悪さは別として、この映画は観てよかった。

『万引き家族』 英語題:Shoplifters

監督・脚本・編集:是枝裕和 音楽:細野晴臣 2018年 120

 

東京ミッドタウン日比谷は、オープンしてまだ2ヶ月と少しで、『万引き家族』を観るために、人で賑わう土曜のこの日に来たのはやはり場違いだったなとは思った。中央に大きな吹き抜けのスペースが有る巨大なショッピングモールは、この映画にはふさわしくなかったかもしれないが、TOHOシネマズ日比谷は大きな劇場の真新しいシートで、夫婦50割だから二人で2200円で映画が観られるという環境は、多少の居心地の悪さはあっても、それでも総じて快適なものだった。

 

映画の公開が、実在の事件と重なって公開が延期になったり、奇妙な「忖度」で公開ができなくなったりということは過去にもあったが、『万引き家族』で描かれた5歳の少女の虐待の痕跡が、まさか見事に、ここ数週間に渡って世間を騒がしている事件と重なり、現実の鏡のように見えるとは思わなかった。子どもは親を選ぶことができないという当たり前の現実は、親が子に最大限の幸せを約束しようと努力する、という既に夢のように空虚な願いを、文字通り鏡のように反映している。子どもの幸せを願わない親はいないと、どこかで信じていることは、現実には無残に打ち砕かれ、映画の中で夢のように再生される。この逆転をどう考えたらいいのか?

 

過去に犯罪を犯し、身を隠している男が、ひとりの少女が「寒そう」にしていることを気の毒に思い、「かわいそうだ」とか「ひもじそうだ」という、手を差し伸べるには十分な動機でその少女を匿う。それを特別なことだと思わない不思議な家族がいる。「返してきたほうがいい」という常識的な反応は、もちろんその通りではあっても、ひもじそうな女の子を見ている女は、既にどこかで「ここにいてもいい」と思っている。血の繋がりよりも、人としての当たり前の感情で「家族」に迎え入れることは、この奇妙な家族にとってはそれほど大きな事件ではなかった。傷ついた小さな子供の腕の傷を心配し、後ろから抱きかかえてあげることが、ごく自然な振る舞いであってほしいと願う。他人である大人に女に、母のような自然な言葉をかけられた子どもは、それを人としての当たり前であると思って欲しい。この貧しくて特別な「家族」に、その自然さを映し出すことが、この映画の課題であったと言ってもいい。

 

突然紛れ込んできた小さな子供は、その年令では当然であるかのように、おねしょをするのだが、ごく普通に叱られ、ごく普通に「ごめんなさいは?」と言わされる。それが特別なことではなかったかのように、貧しい一家は、狭い部屋の布団を仕方ないかのように干しに行く。そして、おねしょの対策を考える。「寝る前に塩を少し舐めるといい」という婆さんの迷信のような助言を真に受けるだけの優しさがここにはある。服がない子供のために、婆さんは縫い物を始める。突然紛れ込んできた子どもは、少し年上の少年と、いくらかの距離と、恥じらいと、戸惑いを保ちながら、兄妹のように居始める。ルールを守ったり、秘密を守ったりしながら、少しづつごく普通の少女になっていく。

 

『万引き家族』を観て思うことは、映画は細部の描写の積み重ねだという当たり前の事実だった。映画に描かれた細部は、それが細かな部分にも執着した描写だということだけで、人を感動させる。かつては地域の再開発で地上げ屋の責めにあったらしい都市部の古い一軒家は、マンションが立ち並ぶ地域に取り残されたかのように、ただの捨て置かれた木造家屋のように描かれる。映画では、かつて地上げの交渉をしていた男の登場でその事がわかる。その家の内部は、誰のものなのかも判らないようなモノが雑然と置かれ、台所らしき場所は、食べ物をつくるというよりは、かろうじて食器を上げ下げしたり洗ったりするような、僅かな水場のように見える。居間とは言っても、5人が入り混じり、そこ以外にどこにけばいいのだ、という雑然とした「場」が中心にあるだけだ。そこに、唐突に子どもが増えるのだ。それぞれがごく僅かな自分の居場所を線引しているような空間は、一定のルールが有るように見える。この光景は、僕には見覚えがある。小学校5年生(1973年頃)の時に父親の転勤で行った奄美大島の友人の家は、8畳くらいのひとまに、家族が8人くらい暮らしていた。その時の自分の家である官舎は、4畳半と6畳が二間の小さな家だったが、その友人の家族の家を見たときの驚きは忘れられない。祖父母と両親と子どもたちが、雑然と同居する小さな空間にも、一定のルールが有るようだった。貧しいのだとか、そういう驚きではなくて、こういう家族がいるのだという素朴な驚きだった。

 

もちろん、家が小さくて、家族が多いということで、『万引き家族』の細部が面白いわけではない。例えば、台所にある冷蔵庫の扉は、飛び散った醤油の跡がこびりついたように汚い。よくもこれだけ飛び散ったなと、幾分か大げさな描写だなと思っていると、信代と女の子が風呂に入るシーンでは、その浴槽の小ささと汚れ具合に驚く。もう何年も掃除などしていないような風呂場は、その「家族」のいち面をきちんと言い当てているし、一方でその細部は、もっと大切なこと、いや、結果的に欠くことのできない重要なことを浮かび上がらせる。汚くしててもいいということではなくて、そこをきれいに掃除をすることを当分の間後回しにしてきたことが、この家族の特徴でもあるからだ。切迫した日々がそうさせたのかもしれないし、今さら部屋の一部を掃除したからといって、何かが変化するわけではない。そうして生きてきた「家族」の風呂場はこれでいいのだという信念の描写が見える。

 

あるいは、際立った細部として印象に残るのは、クリーニング屋をクビになった信代が、治と一緒にそうめんを食べるシーンであり、透けて見える下着姿の信代には、エロティックというよりは生臭いほどの猥褻さを感じずにはいられない。そして突然の夕立と大雨が、鬱陶しく蒸し暑いだけの夕暮れに、唐突に狂気のような衝動を運び込む。信代の透けて見える下着姿が、治を誘うのではなく、夕立によって二人が現実をはみ出していく衝動的で小さな狂気が愛おしい。ちゃぶ台には食べ残したそうめんがこぼれてはみ出していて、その白くて水が滴る生々しさは、この映画のためだけにある細部であって、どんな言葉でも説明のしようがない余韻だけを残している。

 

あるいは、祥太と治とりんが、練習して一緒に盗んだ数本の高級な釣り竿は、売られて換金されることがなく、祥太との再会の場面で使われる。この慎ましい家族の共同作業の成果を、父親であろうとする治が売り払わなかったのはなぜか? リリー・フランキーが演じる治が素晴らしいのは、徹底したカッコ悪さである。もしかすると若い頃はそれなりに粗暴であったかもしれない中年の男は、この映画の時点では徹頭徹尾かっこ悪い。日雇いの仕事も、建設現場ではそろそろ戦力外通知を受けそうな年齢であるし、怪我をして家に戻っても何の補償も得られない。万引きの仕方を子どもたちに教えるとは言っても、そこには素早さや熟練した技があるわけでもなく、普通の万引きが家族連れで行われるといった程度の組織力を見せるだけである。カッコ悪さといえば、信代と久しぶりで交わった夕立の日には、「俺もまだできただろう?」と情けない同意を求める。裸の後ろ姿は、年齢を示すには十分な垂れ方と出方をしているし、家族で行った海水浴場では、今どき、ステテコで海に入る親父はいないだろうという、時代錯誤な見苦しさを見せる。それは、ひとときの道化の姿のようでもあり、幼い子供を喜ばせるには十分な姿だ。だからこそ、信代に誘われたときの生々しい戸惑いが印象に残る。

 

あるいは、祥太が妹をかばうために、わざと万引きで見つかろうとした時に、とっさに掴んだものは数個の玉ねぎが入ったネットだった。オレンジ色のネットに入ったそれは、スーパーで買えば不揃いの玉であれば百数十円からせいぜい二数百円程度の品物だ。入口付近で、安売りされている設定であっても、それが蜜柑やグレープフルーツであってもいいし、じゃがいもや里芋であってもいい。あるいは、少量でも値段が高く、持って逃げるならばもっと軽いものでも良かったはずだ。

なぜ玉ねぎだったのか? 祥太が追いかけてきた店員に捉えらるその時、道路に散らばるのは球形の玉ねぎでなければならなかったからだろう。その円形で安価な庶民的な野菜は、ラストシーンで、団地の通路で一人あそぶ「りん」が、散らばったビー玉を拾い集める仕草で回収されなければならないし、彼女のこの先に起こるかもしれない、何かを示していたはずなのだ。象徴や記号といった暗示のゲームではなくて、現物が想起させる痛々しい何ものかが、確かに確実な細部としてこの映画にはあると思った。

 

この映画が海外で評価されたことは素晴らしいし、何の異論もないのだが、このくらいの映画を、もっと創造できる潜在的な力を、日本の映画は持っているのだと思う。だから、このくらいの映画がアベレージであってほしいと願う。是枝監督のインタビュー記事にもあるように、社会問題や政治的な課題に映画が向かい合っているのかという「問題意識」の有無だと思う。インディペンデントな映画やドキュメンタリーは、痛いほど向かい合っているのだから。

残念ながら、この日の予告編を見ていると、荒唐無稽だとさえ思うキャステイングの劇映画が堂々と広告され、ジャニーズとアイドルの組み合わせは、当分終わりそうにはないのだけれど。

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