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2008.02.03 Sunday

“Even if she had been a criminal…”についての若干の感想

(大久保正氏(映像論研究)から中沢宛にいただいた文面です)


Jean-Gabriel Periot“Even if she had been a criminal…”についての若干の感想


 中沢さんが、解説で上手に仰っていたように、この作品は、歴史の再認識を促すものだと思います。作品全編に流れる国歌“ラ・マルセイエーズ”の意味するものは、何なのか?

答えは、しかし単純ではなさそうです。



年表を繰ると、ナチス・ドイツによるフランスの占領は、1940年6月。パリ解放が、’44年8月26日です。同月ドイツ軍は、全フランス領からの撤退を決定します。

4年以上に及んだナチス占領下の恐怖。それは、テロによる支配であり、精神の、また、魂の蹂躙でもありました。ユダヤ人の狩りたて。ゲシュタポの恐怖。しかし、レジスタンスが組織されます。そのレジスタンスも、武器によるものだけではなくて、秘密出版によるレジスタンス(アラゴンやエリュアールの詩、ヴェルコールの「海の沈黙」)があり、またマルセル・カルネの「天井桟敷の人々」のように、占領下秘かに製作された奇跡のような名画がありますよね。連合軍の反攻。そして、ついに勝ち取った“リベラシオン”(解放)の日。その日の光のまばゆさ。しかし、その光のまばゆさに隠されるように、闇が存在していた…



作者ペリオの意図は、何よりも戦争の否定であり、敵国への憎悪をかき立てるものとしてナショナリズムを批判しつつ、常識では輝かしい歴史のひとコマとされていた出来事にも、実はその中に闇が潜んでいるという事実を告発することにあるようですね。

映画の主人公である女性たちが、“リベラシオン”を祝う人々によって、報復のため髪を切られ丸坊主にされ晒し者にされる。そのクライマックスに至って、それまでメロディだけであった“ラ・マルセイエーズ”に歌詞が加えられ、作品の主題が皮肉をこめて強調される。“リベルテ!リベルテ…(自由よ!)”という歌詞が否応なく耳に入って来ます。

 その作者の意図を端的に示している一節を訳してみます。



愛する、聖なる祖国よ、

我らの腕をして復讐者の支援たらしめよ。

自由!いとしい自由よ

お前の守護者とともに闘え!

我らの勝利の旗の下に、雄々しい生気をもって駆けつける。

お前の敵が息絶えるのが、

お前の勝利と我らの栄光が見える。

武器を取れ市民たち!隊列を組め!

進め、進め、我らの耕地に不浄の血を浴びせつつ。

(同曲第6番)

  

ぺリオは、全編9分の約2/3を、“リベラシオン”の光のなかに潜む闇を暴くことに当てています。この“光から闇へ”の移行は、なかなか周到な手際だと思いました。解放を祝うひとびとが、米軍の兵士たちを交えながら輪を描いて踊っている。星条旗の小旗を持った少女が歌っている、その次のショットからです。はじめは部分をトリミングして、群集の笑顔を出す。そうしておいて、同じショットを繰り返し使用しながら、フレーム枠を少しづつ拡げ、あるいはショットの尺を伸ばし、笑顔の傍らに存在していた異常な光景に観客の注意を導いてゆく。

髪を切られて晒し者にされる女性たちは、いわゆる街の女だけではない。画面にも、帽子を着けた有産階級の決して若くない女性が、2度目に画面に出てきたとき、実は群集に引っ立てられて行くところだったと判る箇所がありますね。例えば、レネの「二十四時間の情事」(’59)のヒロインは、年若いドイツ兵と恋仲になったごく普通の少女でした。彼女は解放の日に恋人を殺され、自分も晒し者にされることによって、心に深い傷を負っている。そのトラウマの故に、ヒロインはヒロシマで結局行きずりの恋しかできない(ヒロシマと真に出会うことがない)というドラマでした。ペリオの作品に登場する女性たちも、その後、どのような生き方をしたのだろうか、と考えさせられます。何時、どのようにして、彼女たちに本当の“リベラシオン”がやって来るのでしょうか?(あるいは、やって来なかったのか…)

立ち話で、ロバート・キャパが撮影した一連の写真のことを申し上げましたが、手元にある写真集には、「1944年8月18日、シャルトル」とありました。おそらく、このような出来事は、解放の日々、フランスのあちこちの街や村で起こったことでしょう。

ただ、私は、ペリオの主張に充分共感し、賛成もしますが、解放の日々の“光と闇”との関係は、闇によって光をおおいつくす性質のものではない、と思っています。歴史のひとコマの、“部分”と“全体”との関係、と言い替えても良いのですが、ペリオの映像構成は、解放の日の“光”を、自明のこととして処理しているので、できれば、一度、動きも音楽もついていないキャパの一連の写真と向き合ってみて下さい。それは、既知の事実の中に未知を発見してゆく、という、ペリオがこの作品で試みた作業にも通じることだと思います。



ところで、いま、「既知の中に未知を発見してゆく」と書きましたけれど、その意味でペリオが行った冒頭から約1/3の部分の映像処理には、いささか疑問を抱きました。解放の日に至る歴史過程は、自明の前提としてフラッシュで一気に語られてしまう感がありますが、全編9分のショット数は、概算でほぼ500です。そのうち約454ショットが冒頭から1/3の部分に圧縮されています。

最初のカラーフィルムに登場する政治家らしき人物は、おそらくダラディエ(フランス首相、’38~’40年)と思われます。イギリスの首相チェンバレンとともに、史上悪名高い「ミュンヘン協定」(’38年、ヒトラーに妥協し、事実上、チェコスロバキアを売り渡した)にサインをした人物です。次にやや時間をさかのぼって、イタリアのファシストやドイツのナチスの集会、ハーケンクロイツの行進などが出てきます。実はコマ送りをして、はじめて気がついたのですが、ダラディエのカラーの部分が白黒に変わるところに挿入されていたのは、日本軍の兵士たちと、割烹着に「大日本国防婦人会」のたすきをかけた日本の婦人たちの映像でした(2ショット)。撮影の時期と場所は判りません。

ここで最初の疑問がわきます。ペリオは、どの程度意識して日本−イタリア−ドイツとフィルムを繋いで行ったのか?もし、彼が第2次世界大戦の端緒を日本の中国侵略にみているとしたら、それは「世界史」の教科書の通説に反して卓見だと思います。(教科書では、’39年、ドイツのポーランド侵攻から、と教わりますが、しかし、日独伊枢軸国で最も早く対外侵略を始めたのは、’31年の日本の満州侵略であって、ついで’35年イタリアのエチオピア侵略と続きます。)しかし、それほどの認識を持っているのなら、何故、それを観客の眼に意識されないようなやり方で処理してしまうのか?

おそらく、作者ペリオ自身にそれほど深い認識はなかったのでしょう。総じて、冒頭1/3の映像処理は、フランス人が体験した戦争の経過は比較的具体的に出している(ヒトラーのパリ入城、ビシー対独協力政権の成立や、鉄道員などが担った国内のさまざまなレジスタンス活動[1]、連合軍の北アフリカの戦闘やノルマンディ上陸作戦、パリ解放までの道程、などなど)反面、他の部分では、ドイツ軍の侵攻、砲撃、戦車、砲弾の炸裂、爆撃、廃墟となった街、といった具合にイメージの抽象化、記号化が目立つのです。連合軍が反攻に転じるところ、ソ連、アメリカ、イギリス、インドなど諸国の軍隊のパレードで綴られる一連のショットがありますが、アメリカ陸軍の大パレードを仔細に見ると、ヘルメットや軍装が第1次大戦のものだったりします。

フランスが戦争に至る過程の映像の選択にも、私は、疑問を抱きました。ムッソリーニやヒトラーが台頭し、戦争になった…というイメージは、(そのとおりに違いないのですが)歴史の道程を単純化しすぎていないか?例えば、ピカソが「ゲルニカ」を描いたスペイン内戦(’36〜’39)、「人民戦線Front populaire」の成立と崩壊は、フランス人の眼から見て、'30年代のファシズム、ナチズムの勃興に対抗する重大事件であったはずです。それらは、どこへ行ってしまったのか、という印象なのです。

作者の主観に沿って都合の良いイメージとなるように、映像を記号として取り扱うという行き方に、私は、この場合賛成しません。それでは、アーカイブされた映像が本来保持していたアクチュアリティーを削いでしまうことになります。もし、記号化されたイメージに沿って繋いでゆくのでなく、時系列で繋いでゆく方法を採れば、冒頭1/3のフラッシュのテンポはもっとゆっくりしたものになるでしょうが、そうした処理の仕方の方が、この映画の意図である歴史の再認識に沿った行きかただ、と私は思います。



歴史の再発見とは、繰り返しになりますが、「既知を未知に変える」ことです。その点で、私は、“Even if she had been a criminal…”よりも、「二十万の亡霊」の方に、より好感を抱いています。あの「広島県産業奨励館」が「原爆ドーム」となって今日にいたるまでの数百枚の写真が、静かに物語るもののなかに、あるいは一枚一枚の写真のあいだに、日本人自身が再発見しなければならないものが、沢山あるように思えるのです。

近いうちに、インターネットでじっくり見直してみたいと思っています。


2007年12月7日

大久保 正
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