2019.08.24 Saturday

まずは映画を学ぶ学生が積極的に参考にするべき一冊

『映画で実践! アカデミック・ライティング』

著者:Karen M.Gocsik / Dave Monahan / Richard Barsam

訳者:土屋武久 小鳥遊書房 2019年3月28日発行

 

ある大学の講師室で、向かいの席の先生と学生の論文やレポートについて「どうしてこんなに簡単に書いてしまうのだろうか?」と、その傾向や特徴について話をしていた。何かについて書くということが、あまりにも簡単に「処理」されていることに、驚きと危機感を持っていたからだ。危機感とは言うまでもなく「盗用」や「剽窃」への無自覚だし、「先行研究がないので書けません」とか「参考文献が多いほうが書きやすい」などと恐れ知らずなことを口にしている学生もいる。どういう意味なのかは考えないようにしている。論文やレポートはその分量に関わらず、自分が書き残す持論であるという意識が欠如していて、文字数を埋める作業が単位取得のための手続きになってしまっているからだ。

「ちょうどいい本がありますよ」と勧めてくれたのがこの本だった。「映画で実践!」というタイトルがとても気になって、早速読んでみた。読み始めた頃に、ちょうどその大学の講師連絡会があり、訳者の土屋武久先生を紹介してもらって、「ちょうど今、お借りして読み始めたところです」と伝えると、研究室にあった本書を「そうですか、どうぞ、どうぞ」と気前よく差し出してくださった。だからというわけではなく、早速、自分のゼミの学生たちには本書を推薦した。自分と学生の双方にある当面の課題に見事に合致していたからだ。

訳者のあとがきによれば、2013年に刊行された原書のタイトルはWriting About Moviesなので、もともとは映画についての論文作法を主眼にしていたことがわかる。実は、映画について書くことの困難さを、どうやって学生に伝えたらいいものかと、ここ十数年に渡って考えていた。本書の帯が「すべての大学生必携。映画でならわかる、映画でならできる、論文・レポート作成術!」と強調しているのは、いくつかの理由があるだろう。前提としては、多くの学校で共有している、論文・レポート制作の危機的な状況があると思う。そして「先行研究をたくさん読むよりは、映画で見ることのほうが楽ちんでしょ?」という現状を反映したやや残念な問いかけと、「映画を見ることで様々な国と地域の歴史や社会の細部が見えてくるし、過去の映画は、それ故に優れた一次資料ですよ」と、映画の資料価値を再発見させようというポジティヴな側面も読み取ることができる。僕自身が授業を担当している学校や科目名を見ても、それが芸術や表現の学校だけではなく、社会学部であったり、環境教育学科であったり、文化人類学特講という科目名で映像制作について取り組んだりと、映画や映像はまさに横断的に取り込まれている。もちろんこれまでにも、研究対象の資料としての映像は活用されているし、映像制作は企画力、構成力、交渉力、取材力、撮影や録音、編集の技術など、複合的な能力を養うことに適している。映画や映像を教材とすることや、制作体験をすることはとても意味があると、機会があればそういう話をしてきた。映画や映像を専門としない学生たちが、論文やレポートによって映像の面白さを再発見してくれれば、それはとてもありがたい。あとがきによれば、英語圏ではスタンダードなハンドブックとして知られていて、300以上の大学で教科書として採用されているという。

もちろん、本書が映画や映像を専門とする学生にとっては、まさに「衝撃的」なありがたさであることは間違いない。まず目についたのは、著者のひとりにリチャード・バーサムRichard Meran Barsamの名前があったことだ。著書に1973年のNONFICTION FILM : A Critical Historyがあり、『ノンフィクション映像史』(山谷哲夫/中野達司:訳 創樹社 1984年)として出版されている。この本は直ぐに手が届くところに置いていて、頻繁に参照するので著者の名前に記憶があった。英米語圏の映画を中心に扱っている信頼できる通史であるし、個々の用語の定義や作品の解釈もわかりやすく、固有の解釈や視点も散見する。他の二人の著者との分担はわからないけれども、映画の扱いが一級であることは確信できる。類書によくあるような自称映画通による「映画で学ぶ〜」の類とは、既に明らかに違う。

読み進んでいくと、本書の主眼が、論文作成のための手順を丁寧に解説することにあることがよく分かる。そしてその例示がすべて映画の細部であり、その選択された映画もまた面白い。書くための準備と実践の方法の割合はほぼ半分で、巻末には多くの用語解説にスチルカットや図版が付されている。

 

 

 

「第1部 書くための準備」では、まず映画に親しんできたことと、映画について書くということは明確に違うし、映画への親しみが、書くことの困難さを招いていることを指摘する。食事をしながら映画の感想を出し合って楽しむことと、研究者が他の研究者たちにむけて、自分の主張をしてその論拠を裏付けることとは、大きな隔たりがある。こんな指摘から始めるところに、本書の優しさがあると言ってもいい。最初のステップは、喫茶店の雑談からもう一歩先に進むことなのだ。自分が見てきた映画のことをまずは書き留めること、それを誰かに話して聞かせること、読ませること、誰かの意見と比較すること、ある時は論議すること、こうした最初のステップでさえ、映画を専門としている学生にも困難なハードルになってきている気がする。自分の解釈を誰かに伝えることを恐れているからだ。だから独自の解釈をしないし、誰かが書いたことの受け売りのほうが安全だと考える。負のスパイラルを壊すのは簡単ではない。だから「◎どうしたら学術的に考えられるか」という項の問を、更に噛み砕いて説明しなければならない。「◎要約する」「◎評価する」「◎分析する」「◎総合する」という平易なプロセスを具体的に示すことで、少しずつ前に進んでいく。

「第2章 映画を鑑賞する」は、映画の話に終始しているので、笑ってしまうほど具体例が面白い。例えば「◎理由を考える」では、「わけがわからないと感じたことに注意を払う。これが一番大切です。」という。そして「以下に実際の作品名をあげながら、具体例をあげておきます。」として、その具体例の中には「スタンリー・キューブリック監督の『スパルタカス』では、なぜクレジットがエンディングではなくオープニングに流れるのか?」「トム・ティクヴァ監督の『ラン・ローラ・ラン』で主人公が駆けるシークエンスの一部に、なぜアニメが使われているのか?」「クエンティン・タランティーノ監督『レザボア・ドッグス』には、ヴィック・ベガがマーヴィン・ナッシュの耳を削ぐシーンがあるが、このときカメラはなぜあらぬ方向を向いているのか?」などと列挙されている。そして「こうした疑問が、実り多い再鑑賞、分析、執筆のタネとなるのです。」と、この項を締めている。明らかなのは、映画を学ぶ学生以外は、こうした問いの答えを探すことはないだろうけれども、こうした例示でも、執筆の後押しをしてくれるのが映画だとすれば、映画について書くことへの興味が喚起されることは間違いないということだ。「◎プロットを分析する」「◎ショット分析チャート」の項も、映画を学ぶ学生ならば必ずしなければならないことであり、極端に映画に寄り添った記述は生き生きとして楽しい。こうした悪ノリのような例示も、本書の魅力のひとつだ。

「第3章 形式分析」と「第4章 文化的分析」は、映画について書くことの困難なハードルを示している。僕自身も、この両者の差異、横断、越境には危険な魅力を感じている。「映画批評や評論のほぼすべてが、形式分析の形をとる」とは、映画を構成する複合的な諸要素を解体することだという。「語るのではなく、示す」ということは、撮影、音響、照明、編集、演技などの技法に関わる技術的な成果を、写実的な言語で描写して、描かれようとした概念から一旦は遠ざかり、文章によって再度その中心に近づこうとする試みを指している。形式と内容は簡単に分離できるものではなくて、そもそも複雑に絡み合っているのだから、これは高度な分析術を要求しているのだが、ここで問題にしているのはそれを言語によって描写する心構えと作法だと言っていい。厄介なのは、演出に関わる部分の分解で、これは全体を構成する物語にも関わってくる。モノとカタリの複合的な関係が世界観を形成していれば、視点と語り口、描写される細部と全体との行き来は、まさに映画のストーリーテリングの醍醐味なのだ。「◎明示的および暗示的」の項で示されているもの、つまり、映画に内在するメッセージや意味は、画面そのものには写っていないという自明の事実が、言語化を戸惑わせる。推論や思い込みは、それが切れ味の鋭いものであったとしても慎重に吟味しなければならない。こうした注意点も、うかつな論文にはしばしば現れるし、かと言って見えているものだけが詳細に描写されても、論文としては魅力を失いかねない。

続く「第4章 文化的分析」では、不可視の領域をどのように手繰り寄せていくかが記されている。プロフェッショナルによって吟味され、巧妙な技法で可視化されたイメージは、見ているだけでその魅力を受容してしまう。それは同時に、メッセージを潜在させたり、意図を見えにくくしたりする。映画にとっては隠すこと、見せないこともまた、演出の重要な要素である。文化的分析はもちろん映画批評に限って現れるわけではなく、文学や絵画、舞台など様々な表現に現れるいくつもの層を、横軸や縦軸を基準に考察することは、理論的な枠組みを作る基本である。この項では〈マルクス主義〉〈フェミニズム〉〈人種とエスニシティ研究〉〈クィア理論〉などを横軸の大項目としてあげて、映画のジャンルやストーリーの定形と対照して論じている。言うまでもなく、国や地域の歴史や宗教、文化、言語、慣習、風俗はその国を熟知していれば容易に理解できる事柄であっても、観客には縁のなかった国の出来事は、映画の中で何が起こっているのかさえも理解できないことがある。例えばアイスランドが舞台の映画で、馬がある地域とどのように関わって来たのか、歴史的な悲劇として何が起こったのか、隣国との関係はどうだったのか、といったことは、描かれた地域の人達にとっては常識である場合、映画では丁寧に説明されないことはよくある。そのことを知っているアイスランドの研究者は、より優れた映画の批評が可能なのだろうか? このことは、僕が研究室にいた20代前半に、担当の先生に尋ねたことがある。僕も自信のある回答を持っていない。映画のパンフレットに寄稿される、その国や地域の研究者たちの論考はしばしば魅力的ではある。しかし、それらが、スクリーンに現れた事象の補足説明にとどまっていることもある。ロシア史家によるロシア映画論と、ロシア映画研究者によるロシア史分析は、いくつもの交差点を持ちながら相互補完的に魅力的である。それはどちらか一方の立場の人が特権的に専有できるものではないし、論議の広がりは映画にとってマイナスであるとは思わない。本書でも指摘されているように、公開から時間が経ってから大きな評価を受ける映画もある。いずれにしても重要なのは、論者の立場を表明することだと思う。そのためには理論的枠組を予め示すことができるように、強固な基礎やフレームを作り上げることだ。

 

「第2部 どのようなプロセスで書くのか」は、具体的な作業の手順が書かれているのだが、ここでも解りやすいトピックを立てて、段階的に少しずつ前に進ませてくれる。本当に親切な構成だと思う。内容については細かく触れることはしないが、「第9章 文体に気を配る」は、翻訳作業が大変だっただろうなと推察する。動作主(actor)と動作(action)との関係を明確にするために、語順を整えたりしなければならない、という指摘なのだが、原文が英語なので、ここでは英文を示していたほうがわかりやすかったのでは、と思ってしまう。おそらく日本語の文法でこのニュアンスを伝えるための工夫がなされているのだと思う。同様に「抽象名詞はやはり抽象的である」や「抽象名詞はロジックを曖昧にする」という指摘も、語句の選択や語順の変化を補うためにも例文は原文も併記してあれば良かったのかも知れない。いずれにしてもこの章では、わかりやすく、簡潔な文章にするために、もったいぶったり、過剰な言い回しを避けるという原則が書かれている。とても重要な項目だと思う。

最後に、最終章に当たる「第10章 推敲」の項で気がついたことを指摘したい。推敲という用語は「読んで字のごとく、『もうひと推ししたり、敲いたり』することが必要なのです。」と訳出されていて面白い。辞書的には推敲=polish, revise, improveなどが挙がっているけれども、章のタイトルはrevising your workなのでreviseなのだけれども、「読んで字のごとく」に相当する原文はどのようなものだったのだろうかと興味を持った。こういう言葉の選択が、翻訳作業の面白さでもあるのだろうと思う。推敲、校正、校閲、校訂、訂正、改正、いずれも文章が人前にさらされる前に、繰り返し確認し、再度見ることで誤りを直すだけでなく、より良く、わかりやすくするための手続きであって、これが一番大切な作業なのだ。(丁寧に見ていても、トピックセンテンスが一度だけトピックセンスになっている、などという見落としはあるものです。)

参考資料の「図解による映画用語解説」はとても解りやすい。そして選ばれた図版にもユーモアがある。例えば「クローズアップ」の説明では、他にいくらでもクローズアップの好例や美しいカットはあるはずなのに、バンクシーの『Exit Through the Gift Shop』のワンカット(ミスター・ブレインウォッシュの顔)が選ばれている。このクロースアップは美しくないし、意図的に冴えない。これはおそらく「超クローズアップ」の説明でスパイク・リーの『Do the Right Thing』の口元と時計のカットと対応しているお遊びなのではないかと思う。

 

これまでに、論文を書くための参考文献や文章作法の本もいくつかあたってみたが、それこそ、作業や手続きのための指南書であってはなんの意味もない。かと言って、本格的な学術論文のルールを示したものは、膨大な作業量を誇示するようで、取り組み段階のゼロから1〜2までのハードルが高すぎる。例えばウンベルト・エコの『論文作法』を薦めたこともあるのだが、あの数年を後悔している。この本はとても面白いけれども、冗談や皮肉も多くて真意を探るのにひと手間かかる。博士論文以上の学術論文を対象にしているので、調査や、資料作成、作業計画。各種カードの作り方など、全体の3分の2に及ぶ準備段階の作業手順の詳細な説明で、絶望的な気持ちになること必至である。学生に「書くな」と言っているようなものだった。この本の前提はイタリアでの大学の大衆化に抗う姿勢であって、「.7.指導教員に利用されるのを回避するには」 などという項目もわざわざ設けてあり、同業者や学者を挑発しているようにも読める。いや、そういう記述がいくつもある。それでも、学生や若い研究者たちには「君は指導教員に私信を書いたのではない。潜在的には人類宛に一冊の本を書いたのだ。」といった記述で叱咤激励している。「引用、敷衍説明、剽窃」の項目もあり、それぞれの誤りを例示しながら解説しているので解りやすいはずなのだが、その例示がまた難解だったりする。読み物として楽しめるが論文作法としては奇書の類いかも知れない。

ここ数年は、後悔と反省を踏まえて、基本的な論文作法や表記のルールについては、京都精華大学の佐藤守弘さんがweb siteで公開している「学術論文を書くために」(2012年改訂版)http://web.kyoto-inet.or.jp/people/b-monkey/howto.htmlを学生には紹介するようにしていた。それでも、こういう丁寧なサイトを予め見てくれているのかは疑わしい。「引用は多いほうがいいんですか?」などと問われると、上述のエコとは別次元で悩ましい。

そうなると、作業前に推薦するのは解りやすい文章の作法に落ち着いてしまい、本多勝一の『日本語の作文技術』をまずはクリアーしてほしいと願っていた。本多勝一が示す作文技術には、文章の構成を理解して整理すれば解りやすくなる、という基本的な姿勢が一貫していてる。主・述や修飾関係を近づける、語順を入れ替える、テンのうちかた、改行の考え方、カッコの使い方など、そのまま自分の文章の推敲に応用しやすいところが優れている。一方で、外国人の人名表記など、分かち書き(・、=、)のルールの説明は現在普及しているものとは違っているし、数字の4桁区切りを主張しているところも、本多らしいのだが、今、それを使うとかえって分かり難い。それでもこの「技術書」は現在でも学ぶところが多い。

エコの『論文作法』がそれでも十分に魅力的でカッコいいのは、第讃蓮,爐垢咫,亮,琉貶犬書かれているからだ。この項は「本書のむすびとして二つの考察を行いたい。論文を作成するのは楽しむことを意味するし、論文とは、何も無駄にはならない点で、豚みたいなものなのだ。」と始まる。日本人であれば、挑発的に「クジラみたいなもの」と書くだろうか? 論文を書くことの楽しさは、それが「一種のゲーム、賭け、宝探しとして体験できること」であるし、「挑戦者は君なのだ」と自覚できる瞬間の悦びに似ている。

今の学生にとっては、書くことが苦痛でしか無いか、あるいは楽勝で「処理」できる類の処世術のように誤解されていることが、何よりもひどく残念なのだ。

 

 

この『映画で実践! アカデミック・ライティング』を、論文作法の参考書に推薦することはもちろんであるが、自分自身が発見することが多かった。自分の文章を振り返ったり、これから書くものを推敲する時には必ず参照することになるだろう。

 

土屋武久先生、ありがとうございました。「訳者あとがき」にある危機感は僕も全く同感です。また、あのBARみたいな先生の研究室でお話させて下さい。ごちそうさまでした。

2018.03.16 Friday

寝る前に読むと、目が冴えてくる。目を閉じれば、状況が次々に浮かんでくる。

『炎上! 100円ライター始末記』 岩本太郎

 出版人ライブラリ 2018年2月25日

 

『炎上! 100円ライター始末記』を購入してから5日ほど、寝る前に読んでいたのだけど、とても寝付きが悪かった。適当なところで読むのをやめて眠ろうとしても、つい、先に進んでしまう。ぐんぐんと引っ張られるようにして読み進み、その情景を追体験しているようだった。明かりを消して目を閉じると、彼が見ていたであろう風景が、次々に浮かんできて、それがとてもリアルだったのだ。もちろん、彼とその場にいたというわけではない。同時代の東京の風景が、自分の記憶とも呼応して浮かんできたのだ。

 

読み終えてから考えたのは、「僕は岩本太郎という人については、ほとんどなにも知らなかったな」ということだった。著者略歴をみると岩本さんは僕よりも2歳年下なので、彼が上京してきた頃、僕は大学を卒業して研究室の臨時職員として働いていた。今でいうなら「ティーチング・アシスタント」だろうか。その後は映像系専門学校の教員になり、学校では同じ部署にデザイン科・美術科もあったことで、岩本さんが文章を書いていたという「宣伝会議」や「創」「マスコミ就職読本」など、おそらくその頃に何度か手にとっていたはずだ。岩本さんと同じように、僕もいわゆる「バブル期」の恩恵というものには無縁だった。それでも、当時は終電を逃すと主要な駅ではタクシー待ちに長蛇の列が出来ていて、路上では、空車を駅に行く前に争奪しようと1万円札を数枚持って振っている男を見たことがある。僕にとってはマスコミもまた、バブルの象徴だったし、出版やデザイン・広告写真は憧れの業種だった。当時の大手企業のCMなどを手掛けた映像プロダクションも巨額の制作費を誇っていた。そんな時代を横目で見て過ごしていた。岩本さんは、その頃のマスコミの状況を俯瞰してみているような人だったのだな、と思う。オウムやアレフの取材については、どこかで話を聞いていたと思う。また、「八ヶ岳山麓奇譚——白装束に会いに行く」で書かれている「パナウエーブ研究所」の騒動は、当時のテレビ映像をはっきりと覚えている。そんな渦中でインタビューを試みていたんだな、とあの頃の映像を思い出していた。

 

僕が岩本さんと初めて会ったのは、日本ビクターが東京ビデオフェスティバル(TVF)の継続を断念し、NPO法人主催に移行するかどうかが話し合われていた頃だと思う。TVFの事務局だった牛頭さんが、岩本さんとの食事に誘ってくれた。岩本さんはそれまでにもTVFのことを取材して、幾つかの媒体に書いていてくれたのだと記憶している。その頃というのは、NPOなどが主催する小さなメディアや、WEB媒体などで個人が発信する仕組みが整いつつあった2007年ころだと思う。その後、「NPO法人市民がつくる」が発足するころには何度か、NPOのあり方について相談もしていたし、当初はその運営にも関わってもらっていた。本書に書かれているように、岩本さんが体調が悪くなっていく、少し前だ。「岩本さんは体調が悪いらしい」という話を聞いたのも牛頭さんからだった。我々のNPOもスタートしてのはいいけれども、協賛や支援をしてくれる会社を探しても、全くうまく行かなかった時期だ。各所への助成金申請もことごとくダメだった。日本ビクターもケンウッドとの合併吸収で社名は変わり、JVCブランドが残った。そんな時期が岩本さんの不調な時期とも重なっている。

 

それでも、岩本さんが「週刊金曜日」に連載していた記事は毎回楽しみにして読んでいたし、TVFも、僕が主催している「無礼講」という上映会も記事にしてくれたことがあった。「週刊金曜日」では、出版業界の動向や各地のインディペンデント・メディアの動向を伝えてくれていた一方で、国会前や大久保界隈のヘイトスピーチの現場から、ライブ配信で映像を伝えていたのも彼だった。元気そうだな、とも思ったが、きわどいところばかり歩いているようで、心配でもあった。

 

ともあれ、本書を読んで、岩本太郎の勢いのある文章をまとめて読むことができたことは、とても嬉しかった。文章が刃物のように刺さるような側面もあり、一方で、バックパッカー旅行記のような、珍道中を綴るとぼけた文章もある。岩本太郎の文章は、本当に面白い。一番近いところでは、「メディアクリティーク」(発行所:株式会社出版人)2018年2月15日付けで、「“無差別級”の映像祭「TVF」が今年ついに40周年」と題して書いてくれている。これまでの経緯との性格を的確にまとめてくれている。

2017.09.24 Sunday

早合点しないこと、立ち止まって少しだけでも考える時間を作ること。

『窓をひろげて考えよう』 下村健一・著 

かもがわ出版 2017年7月24日

 

毎日のように北朝鮮のことが報じられている。戦争になるのでは、と危機感を煽られる日々が続く。メディアはアメリカ大統領と北朝鮮の指導者の挑発合戦を報じ続けている。日本はどうなるのだろうか? ミサイル防衛システムは必要なのだろうか?

こんなことを考えているのは、子どもたちではなく、むしろニュースをよく見る大人たちだ。今、この本に書かれていることは、大人たちへのメッセージでもある。

 

本書のテーマを短くまとめるとこうだろうか。

「見聞きしたことを早合点しないこと。その早合点で他の人を間違いに巻き込んだり、傷つけたりしないこと。そして自分も守ること。そのために日頃からトレーニングをしよう。」

 

下村健一さんの新しい著書は、絵本の体裁をとっているが、幼児向けの本ではない。小学校の高学年を読者として想定しているそうだが、中・高校生でも、あるいは大人でも、あらためて気付かされることが多いだろう。われわれも、つい、情報の読み違いや、その不用意な拡散をしてしまっていることがあるはずだ。

絵本の体裁は、タイトルにもある「窓」を効果的に見せる方法でもある。「窓」を通した見え方を提示して、ページをめくると窓の外の世界が見える。切り抜かれた窓は、テレビの枠でもあり、スマートホンの表示画面でもある。こうした仕掛けは、手に取るととても楽しい。僕は個人的に絵本を楽しんでいるほうの大人だと思う。板橋区立美術館が毎年開催する「ボローニャ国際絵本展」の原画展を見に行くことがあるからだ。開催時期には絵本も多く揃えられ、それらを眺めているととても楽しい。同時に、絵本は子どもたち向けだけではないこともわかる。昔話や各地の教訓譚の類だけではなく、現代的なエピソードも巧みに取り込まれている。この『窓もひろげて考えよう』も、現実に起こった事件やエピソードをベースに8つのケースを使って、それぞれの「早合点」の起こり方を説明している。

例えば「体験3 動物園からワニがにげた!」では、窓を外したページの囲みで、2016年に熊本地震の際に広がった「ライオンが逃げた」というデマを紹介している。「体験4 両国の関係、ちょっと心配、、、」では、首脳会談やサミットでどの瞬間を捉えて伝えるかという恣意的な選択が説明されている。この種の切り取りは、現在の米朝の緊張関係を伝えるときにも、お互いの怒った顔ばかりが報じられるし、警察に捕まった犯人の顔はいつでも凶悪そうな写真が使われる。あるいは「体験8 犯人はこいつに決まってる!」では、松本サリン事件の誤報をベースにしている。この騒ぎは報道被害にも発展した。新聞やテレビが他社のスクープに反応し、情報を検証せずに即応したために過剰な報道合戦となった例だ。

 

8つのケースで共通して扱われているのは、「枠」と「スピード」の問題だ。「枠」は、具体的にはテレビやパソコン、スマートホンの「フレーム」だ。フレームは視野を枠で切り取ることで見える「枠」と、思い込みや勘違い、あるいは差別意識などの、いわば「心的な枠」も想定される。更には、メディアにとっての様々な枠は「スピード」にも関係する。テレビの番組という枠、その中でVTRが何秒以内という時間の枠、新聞や雑誌であれば、文字通りの紙面の枠であり、月刊、週刊、日刊といった出版体制の枠組みや、WEBサイトの枠でもある。「スピード」は、情報の伝達速度であり、速報性や即応性といった、情報に対する反応のスピードである。SNSの速報性には、つい受け取った側も、急いで反応して誰かに伝えようとしてしまう。即応性は必要なときもあるがとても危険なときもある。

 

「枠」と「スピード」の両方に対して、少しだけ立ち止まって考えてみること。見方を少し変えること。それは伝えた人の立場を考えたり、伝え方の視点を変えてみたり、伝えられた側の読み取り方を想定してみたりする、そんな時間をつくるということだ。「慌てないこと、見えている窓を固めないこと、その窓を少しでも広げてみる」ということを、本書は教えている。

2015.05.30 Saturday

10代だけではなく50代の僕も心あたりがある

 

10代からの情報キャッチボール入門』 下村健一

岩波書店 2015424日 発行


10代からの〜」という本書は50代の僕にも思い当たることがずいぶんとあり、一気に読んでしまった。僕が担当している映像の授業の冒頭でも本書を紹介した。ある大学では、受講者が少人数なので、現物を授業時間に回して見てもらっていた。「知りたくもない情報まで見れてしまうSNSにここ最近うんざりするばかりで、スマホを投げたい気分になることもありました。この小さな画面にとらわれていると、ある意味盲目になるのだなと。」とは、ある学生のコメントだった。20代でも30代でもSNSの取り扱いには苦労している人は多いだろう。むしろ自制して上手に付き合っている人のほうが少ないかもしれない。

 

情報キャッチボールのグローブやバットに相当するのはスマホで、ボールはLineやツイッター、フェイス・ブックといったSNSのためのアプリケーションから投げ込まれてくる。そして同じ方法を使って投げ返す。キャッチボールは相手の立ち位置と距離を確認して、そこに届くように投げるけれども、情報というボールは大きさもスピードも数もさまざまだし、受け取る相手も無数に広がるし、投げてくる人も時には誰だかわからない。どこから飛んでくるのかさえわからない。硬いのか柔らかいのか、本物か偽物かさえ解らない。そんなボールを受け取って投げ返すには、神業のような技術が必要だと思ってしまう。

 

もちろん本書は、スマホ・ゼロを提唱しているわけではない。これほど複雑に見える情報のキャッチボールを、ひとつひとつ段階的に丁寧に考えていけば、少しずつ相手の立場が見えてくるし、ボールの行方や数も限定的になってくる。手にしている道具ときちんと向き合って、キャッチボールが少しでも上手になるための手引である。とっさに反応する前に、少し考える事、これだけでもスッテプがひとつ上がることを伝えている。子供の頃「食事の仕方」や「道の歩き方」を身につけたように、情報のキャッチボールも「何でも口に入れてはいけない」「道に飛び出してはいけない」ということから始まる。

 

僕はこの手のツールは、FBだけを使っているが、自分の意見を投稿したり、他の人の意見にコメントしたりしてから「しまった」と思ったことが何度かある。「これを見て気を悪くしたんじゃないか」とか、「余計なことを書いたために、都合の悪いことが他の人にも知られてしまったかな」などと後悔して、投稿やコメントを削除したりしたこともある。50代でもそういう失敗はあるから、多感な時期にたくさんの言葉をやりとりしている10代ならば、そのリスクも大きいはずだ。

 

本書は「君は、〜」という問いかけで進行する。もしも君がLineでこんなメッセージを受け取ったら? という一貫したスタイルはとてもわかりやすく身近な問題提起だと感じる。事実、身近に幾つもの似たような問題が発生している。下村さんは、本人が事実誤認の被害者になってケースをまず紹介している。「ある市議のブログに書かれた下村の『正体』」の項では、「ここでは書けないような破廉恥事件」の当事者にされ、「愛人に訴えられ」「長期謹慎処分を受けていたイメージが、フラッシュバックするのです。」と書かれたことを例示する。テレビ番組で性犯罪被害者の裁判について、下村さんの取材が放送された1時間後に、それを見た市議が下村さんへの不信感を覚えて自分のブログに書き込んだそうだ。市議のコメントに対する読者からの疑問の提示、それに対する市議の書き込み、さらに反省と謝罪の書き込み、を時系列で紹介する。しかし、反省や謝罪があったからといって一見落着ではなくて、謝罪までの経緯をすべての人がたどったわけではないことも付け加えている。こうした丁寧な例示は、次項の「情報をしっかり受け取るための4つのギモン」、「情報をしっかり届けるための4つのジモン」を説明するための具体的な材料になっている。

 

若い人がSNSとの付き合い方に悩んだり、友人関係や家族関係でトラブルを抱えていたりしていたら、ぜひ読んでほしいと思う。気持ちが少し楽になって、次の情報が届く時の心構えになるだろうし、自分が何かを書こうとした時にその言葉が届いた後のことを想像できるようになるだろう。そしてこれは若い人だけの問題ではないな。こうして書いている時に、422日に爆発事故があった「三井化学大竹工場で劣化ウラン弾の弾頭を製造して、米軍海兵隊岩国基地に供給している」というFBの投稿があった。投稿者は「未確認の情報だけれども、記事ネタとして」と断り書きをしている。「本当かな? でも、立地的にもありえそうだ。」と思ってしまう記事だ。今も、次々にこうした情報やコメントがが届いている。

この本は、5月23日に「NPO・市民がつくるTVF」の年次総会が行われた時、ご本人から頂戴した。もちろん頂戴したから紹介しているわけではない。本当にわかりやすくて誰かに教えたくなった。

下村さん、ためになる本をありがとうございました。

2015.03.01 Sunday

我々はいったいどのくらい「電気代ではない電気代」を払っていたのだろうか?

 

『原発利権を追う 電力をめぐるカネと権力の構造』

朝日新聞特別報道部 朝日新聞出版 2014930日発行

 

 『原発利権を追う 電力をめぐるカネと権力の構造』(朝日新聞特別報道部 2014930日刊)は、今の日本に本格的に絶望したい人におすすめの本です。原発にかかわる幾つもの「なぜ?」は、単純にひとつの理由によるものです。本書の冒頭からそれは解き明かされます。「なぜ、再稼働は九電からなのか?」。この章で説明されている、政治家と官僚と九電(と地元の経済界)との強固な関係が原発をめぐる構造の基本です。麻生太郎と九電との関係に始まり、県知事、市長、町長への九電による選挙応援、原発建設をめぐる大手ゼネコン、準大手ゼネコン、下請けの地元建設会社から孫受けまでの序列は、「そういうことなら、公共事業にはつきものだ」と思うことでしょう。しかし、本書で明らかになったのは、福島原発事故後に元電力会社の重役や建設会社の社長、地元の同意を得るために動いた汚れ仕事をしてきた人たちの証言です。金権政治は日本のお家芸のように思っていましたが、ここまでひどいことが起こっていたのかと、本格的に絶望しました。

最終章の「関電の裏面史」では、関西電力元副社長・内藤千百里(ちもり)の証言があります。1962年から25年間政治家担当として、政・官・電の強固なスクラムを築き支え続けた裏の実力者だったと書かれています。内藤氏は、1967年に美浜原発1号機が完成した後から、歴代の総理大臣には、盆・暮れに1000万円ずつの現金を持参し、見返りを求めない寄付として渡していたそうです。年間20億円ほどのこうした寄付金をランク付けした議員たちに渡し、議員や首長たちの様々な要求にも対応していたといいます。もちろん、全部電気代として集めた金です。

こういう構造は関電に限ったことではなく、中部電力でも、もちろん東京電力でもしっかりと組織に組み込まれているそうです。もともと関電が中央の政治家たちに献金や寄付を活発化させたのは、東電と政府、経済界との近い関係を妬み、関西にも目を向けてもらえるように関西の財界と一丸となって取り組んだ成果なのだそうです。膨大な資金源になっているのは、ひとつは1千億円規模の建設を受注したいゼネコンや、準大手、地元の建設会社から「ご自由にお使い下さい」と電力会社幹部に手渡されるカネ。政治家への献金はこうした建設会社に用意させたり、電力会社には「電気代」という無限に徴収できる「あぶく銭」があるため、いくらでも用意出来たのだそうです。日比谷にある東電本社には、政治家からのパーティー券購入の依頼を受ける専門の窓口もあり、政治資金規正法の範囲内で20万円以内の振り分けて、関連会社に購入させるといういう構造があるのだそうです。そしてその金額は、経済産業大臣などの電力事業関連省庁の大臣が最も値段が高く、以下の序列は影響力によって決められているそうです。60万円とかもらっている大臣は、ほぼ相手にされていないような人たちだから、情報がリークするんでしょうね。膨大な金をもらっている人たちの情報ほど、出てこない。それは電力会社の存亡に関わるからです。

福島第一原発の関連では、原発の増設の見返りとして、地元にサッカーのナショナルトレーニングセンター「Jヴィレッジ」の建設と合わせて、エルミタージュ美術館の別館を建設する計画もあったといいます。これは驚きました。ロシア側に別館建設の保証金としてゼネコンに準備させた5億円を渡し、その後この計画は頓挫したため、5億円はタダのロシアへの寄付になったそうです。

政治家への献金もゼネコンが準備したカネも、地元にばら撒いた寄付金も、結局は原発建設にかかる費用ですから、「電気代」として徴収した金です。我々はいったいどれだけの「電気代ではない電気代」を支払ってきたんでしょうか?

201531日の今、国会では安倍政権の閣僚が政治家への献金をめぐる問題で追求され続けています。重要な審議事項がたくさんあるのに、毎日のように「政治とカネ」の問題で、少しも前に進みませんね。政治とカネの問題はきちんと追求するべき問題です。昨日、民主党の議員が「安倍政権の構造的な問題ではないか?」と詰問し、安部総理は「そういう決めつけが失礼だ」と顔を歪めて反論していました。こういう問題は安倍政権にかぎらず、明らかに「構造的な問題」です。そのことが本書ではよく分かります。また、昨夜は「朝まで生テレビ」の討論で「原発の再稼働」がテーマでした。多くの人が反対しているのに、なぜそんなに再稼働したがるのか? コレもこの本でよく分かります。つまり、膨大な利権(カネ)によって動いているだけなのですね。

 

【目次】

1章 九電王国・支配の構造

なぜ、再稼動は「九電」からなのか?

県知事と近い"九電

徹底的な「地元支配」の仕組み

原発城下町、川内

 

2章 立地のまちへ

むつ市を中間貯蔵施設

3.11後、語りだした影たち

証言を求め、再取材

明らかになったむつ市長の秘密

 

3章 東電OBの告白

「もう、ウソをつきたくない」

「土砂処理事業」の不透明なカネ

東電退職後、白川氏のもとへ

 

4章 ゼネコンの内幕

幻の福島のエルミタージュ美術館

佐藤知事と東電の仲をとりもつ

クレーム処置もゼネコンが肩代わり

 

5章 東電総務部の実態

東電本店3階の政界窓口

●“総務部天下"の東電史

政官電の三角関係

 

6章 中部電の裏金システム

引き継がれてきた裏金の伝統

工面したカネの使い道

やがて、最深部"の中央政界へ

 

7章 「関電の裏面史」

戦後電力史の裏側

長い、長い告白

芦原会長との二人三脚の日々

2014.03.07 Friday

僕は鞍手高校出身なのに、こんなことも知らなかった

 
2014.02.15 Saturday

今、この時期に読み返した『思想検事』に、何か予言的な気配を感じてしまう。

 
2014.01.26 Sunday

寝る前に楽しむ漢字のおもしろさ

 
2013.09.16 Monday

『水俣学』への最良の入門書だと思う。

 
2013.09.15 Sunday

日本人の土着の精神性に、つい嬉しくなる『葬式』

 

『葬式 あの世への民俗』 須藤功 青弓社

1996319日 初版発行 19979114

 

タイトルが持つ一般的な訴求力という意味では、最低ランクの書名だと思うけれども、この類の本を読むのが好きだ。もちろん「葬式」の段取りやマナーを記した実用書ではない。映画『お葬式』のような、現代社会との奇妙なズレをコミカルに描いたエッセイでもない。とても真面目な、ためになる本だった。何がタメになるのかは解らない。だけど、読後感がとても充実していた。民俗学の本というよりは、姫田忠義さんや松川八洲雄さんの記録映画を観たあとのような気持ちになった。

 

日本の習俗をめぐる民俗学では、柳田国男や折口信夫、あるいは宮田登や網野善彦といった学術的な範疇の周囲に、より、民衆に寄り添った視点で、様々な儀式や慣習を見つめたものがある。宮本常一の農・漁村を調査したフィールドワークや、赤松啓介による「性風俗・風習」や「非常民」の生活に着眼したもの、さらには本書のように「葬式」や「盆踊り」「祭り」「神事」など、ある特別な儀式に焦点をあてたものがある。

 

著者の須藤功は写真家であり、著書は、日本各地の様々な儀式や生活様式を、その詳細な記述と写真で構成したドキュメントが多い。本書『葬式 あの世への民俗』でも、「まえがき」に記述の意図が記されている。現代の葬儀屋による葬式ではなく、日本の古くからの死者への考え方を残している葬式に着眼した、と。葬儀屋が葬儀を取り仕切るようになるまでは、各地で同じように、葬式組や町内組、隣組によって、その土地の独自の風習を反映した葬式が集落ごとに行なわれていた。それらはもちろん、担当者にとっては大きな負担でもあるから、現在のような葬儀屋の仕事はありがたい。しかし、死者をどのように生活に位置づけ、先祖に遡って弔い続けるのかといった精神的な継承は、概ねそうした近隣の人達による具体的な体験によってなされていた。

 

冒頭の章では「村人の手になる雪国の葬式」として、新潟県山古志村で遭遇した事故とその後の村人の対応が記述されている。診療所の雪上車が来るまで、雪掘りで屋根から落下した人の耳元で「オーイ、オーイ」と叫び続ける人達。その後、遺体とともにすごす家族、立棺での納棺、野辺送りの道順とその意味、埋葬のしきたりなどが写真と共に詳細に記述されている。続く「葬式のしきたりお国風」では、アイヌ・二風谷の死装束と埋葬、岩手県前沢町の夏の葬式では、親族が履物に白紙を結ぶ「シビトゾウリ」の習慣、秋田県鳥海町での白い着物の正装、あるいは宮崎県西都市銀鏡の神葬の様子など、全国の独自の習慣が記されている。

 

「友引が大安につぐ佳き日」という項も興味深かった。現代では「友引」に葬式を出さないが、後に字面でそうなった後付の慣習であるらしい。その部分を引いてみると、以下のように書かれている。

「友引は暦注六曜にある。先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口の六つで、六輝ともいわれる。六曜は十四世紀ごろ中国から日本に伝わった。当初は、大安・留連・速喜・赤口・将吉・空亡というものだった。これが国内で名称も順番も変化し、現在の形に近いものになるのは亨保(17161736)のころ、広まるのは天保(18301844)のころからといわれる。

 現在の形に近いというのは、全く同じではないということである。たとえば仏滅は「物滅」とも書き、仏の入寂とは全く無関係だった。

 六曜の解釈にしても、時刻の吉凶占いにかぎられていた。先勝は午前が吉、先負は午後が吉、その間にはさまった友引は、「相打ち友引とて勝負なし」といい、境目の正午だけが凶で午前午後は吉とするものだった。」とあり、大安に続く佳き日で、葬式とも関係がなかったそうだ。また、地方によっては干支による忌避もあるという。近畿地方では丑や卯の日には葬式を出さない地域があるという。「ウカサナル」「ウガサネ」という重なりを嫌ったそうだ。

 

賑やかな沖縄の葬儀も楽しく描写されているし、埼玉県秩父市久那では「ジャランポン祭り」という楽しい葬式祭りがあるという。死者役の人が死装束を付けられ、寺での読経の最中に突然に鉦や太鼓が鳴り響き、死者が復活して賑やかにみんなで行列をして神社に向かうというものだ。

読後に豊かな気持ちになるというのは、こういう日本の精神性がとても微笑ましく感じたからだろう。

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