2020.03.22 Sunday

こういう映画にしたかったのか、こういう映画にしかならなかったのかは判らないけれども、曲名からつけられたこの映画のタイトルは素晴らしい。

『どこへ出しても恥ずかしい人』

監督:佐々木育野 2019年 64

https://hazukasiihito.shimafilms.com

 

 

雪が降った日の新宿でこの映画を観た。雨は覚悟していたけれども、観終わって映画館のビルから見た新宿の裏通りは、明らかに雪が混じって白く舞っていた。今、観終えたばかりの映画の風景が、すぐそこにある。それは少しも不思議ではなくて、目の前の地続きの新宿は、心地よい匂いがした。

 

友川カズキを熱く語ることなど僕には出来ない。だからもしも自分が映画を撮るとすればどういう映画なのだろうかと想像してみるが、どんな映画にすることも難しそうだと思った。この映画に興味があったのは、自分もいま、ギター1本で歌うブルースマンの映画を作っているからだったし、友川カズキという「くせ者」をどうやって映画にするのだろうかという興味もあった。参考になるかもしれないとも思っていた。

 

結論から言えば、「それでも面白かった」ということだろうか? 「それでも」にはいくつかの意味がある。おそらく友川カズキをよく知っている人や、古くからの歌のファンには物足りない内容なのだと思う。なぜこの時期の記録だけなのかという、公開までの隔たりも気になる。友川カズキの、肉や骨を通って吐き出されるような言葉や音は、この映画でも垣間見える。『生きているって言ってみろ』は、衝撃的な歌だったし、今もその歌声は痛切で在る。「それでも」と思うのは、競輪に明け暮れる友川のギャンブル狂の一面が、歌との距離しか作っていないように思われるところだ。ライブの合間で語る「今も頭の中を自転車が走っています」とは、友川の本音なのかも知れない。ギャラがいいから引き受けたというライブの話しも、「金に目が眩んでいる」という言葉も、おそらくはその刹那の本音なのだと思う。ライブの曲間ではこれまでも、か細く、情けない話ばかりしていたはずだし、それは嘘では無かった。「金がなくて、ファンの人がエアコンをつけてくれた」などという話を聞いたことがあった。だからこそ、何日間もずっと一緒に酒を呑んでいたという、たこ八郎とのエピソードも、素直に受け入れることができた。だからこそ『彼が居た、、、そうだ!たこ八郎がいた』は美しい歌だった。映画のサブタイトルに「途方に暮れながら生きる」とは、まさにこういう歌詞が絞り出されるその日々のことだと思う。世間の常識との距離は、底辺で喘ぐような世俗との近さではあるけれども、貧困や博打好きといった解りやすさとも距離がある。世俗に背を向ける表現者か? そう、破滅型の物書きや芸術家と似ていなくも無い。その距離を、気配だけでも知りたかった。

 

だから、友川カズキの日常生活をそれほど観たかったわけではない。競輪場に通う友川の姿は、もちろんそれは日常として面白い。本気だからだ。息子たちまで巻き込んでいる様子には、他人だけれども本当にあきれ果てる。筋金入りのろくでなしだと思う。だからこそ、競輪の歌『夢のラップもう一丁』は素晴らしい。本気のろくでなしだからだ。僕が観たかったのは、どんな姿なのか? 本当は自分でもよくわかっていないけれども、こんな日常の姿ではなかったように思うのだ。それでも、それはこの映画に対しての批判ではない。僕はこのようには撮らないだろうし、撮れない。自分では解釈しきれないのだと思う。だからこの映画を否定出来ない。

 

友川カズキの歌を初めて聴いたのは、全くの偶然だった。テレビ番組でのそれは、カウンターに座る金八先生と三原じゅん子の後ろで(確か吉祥寺の「曼荼羅」)歌っていた友川カズキだった。その曲を聴いてから、すぐに『無残の美』を買いに行ったと思う。渋谷のアピアに見にいったのもそのすぐ後だったか。しばらくしてから、佐々木昭一郎のテレビドラマ『さすらい』(1971年)が再放送され、その若い姿を見た。秋田から出てきて映画の看板描きの見習いをやっている「ギター」と呼ばれる青年の役だった。その後、看板描きをやめてキャバレーで働く友川の姿は、他の役者と同様に現実と区別がつかないものだった。そのほかにも、山本晋也のポルノ映画に出ているらしいことを知ったが、それは見ていない。何れにしても、破滅型の匂いのする癖の強い表現者だと思っていた。最近ではこれまでの文章を集めた『一人盆踊り』(2019年)を読んでいた。「週刊金曜日」(2019年4月22日号)のインタビューは、聞き手でもあった編集部の土井伸一郎さんが教えてくれた。これが、その時点でメディアに載ったの最新の姿だと思って読んでいた。そしてこの映画を観たのだった。

 

友川カズキへの個人的な関心は、明らかに屈折していて、集中的にのめり込んだけれども、一時期の熱は冷めていた。おそらくついていけなくなったのだ。友川の生き方を、少し距離を置いて途方に暮れて観ていた。それでも、中上健次の命日だとか、福島泰樹の最期の授業とか、ことあるごとに周期的に思い出し聴きたくなるような歌だった。自分の中では大きな位置を占めていると今でも思う。

 

この映画について、何か書こうと思っていたけれども、なかなか言葉が見つからなかったのは何故だろう。そんなことを毎日考えていたら、一週間が過ぎた。自分に跳ね返ってきそうだと思ったからか? 何かを書く自信がなかったからか? だから、こんな文章になってしまった。

 

それにしても、2010年の夏の記録を、どうして今、このタイミングでその時期の記録だけで64分の映画にしたのだろうか? 始めからこの夏だけにするつもりだったのか? 何らかの理由で撮り続けることができなくなったのか? 何れにしても、友川カズキに惹かれた者にとってはとても興味深い記録だった。

 

2020.02.20 Thursday

知らなかったと言えば、いずれ無くなるような問題ではない。そんな映画を観てしまったことを誰かに伝えなければと思う。

『馬三家からの手紙』  原題:LETTER FROM MASANJIA

監督:レオン・リー 制作:フライングクラウドプロダクション

配給:グループ現代  2018年 カナダ 76

 

映画を観終わったときに、しばらくは言葉が見つからないことがある。

何から書けばいいのか、戸惑ってしまう。

またひとつ、海外の映画によって知らなかったことに触れることができた。何処かで、人が人らしくない扱いを受けている。知らなかったと言えば、いずれ無くなるような問題ではない。

そんな映画を観てしまったことを誰かに伝えなければと思う。

 

映画は一枚の紙片が発見されたところから始まる。

馬三家労働教養所で書かれたもので、施設の実態を告発する内容だった。馬三家労働教養所は政府が反体制的とみなせば、裁判抜きで収容することができる強制収容所であったという。法制度があるとは言っても反政府活動には問答無用の拘束がなされ、尋問や拷問も行われていたらしい。孫毅が教養所で書いた20通の告発文は、所内の労働所で制作されたハロウィンの飾り物に紛れ込ませて発送され、それが海外で売られ、紙片が発見されることをわずかに期待していた。その間、告発文のひとつが看守に見つかり、孫毅や仲間たちは次々に拷問を受けていたという。その紙片はアメリカ・オレゴン州のジュリー・キースによって発見された。

 

概要をこうして書いてしまえば、中国で起こっていることだから特に驚かない、と言われるだろうか?

孫毅が拘束されるきっかけとなったのが、「法輪功」の学習者であったということについてはどうだろうか? 「法輪功」は中国ではよく知られる健康法の「気功」から発展した修練法を学習する団体だったそうで、1992年に李洪志によって広められた。驚くのはその学習者が1998年に7000万人に達したために、中国政府はその拡大を驚異とし、非合法組織に定めて取締を開始した。映像で見ても、老人たちを中心とした朝の太極拳といった活動なのだが、何しろ波及の速度と組織力を恐れたのだろう。つまり「政府の管理下」に収まらなければ非合法という恐るべき判断が、こうした団体を摘発し、拘束し収束させようとする。北京五輪の開催期間が迫ると「法輪功」への弾圧が一層厳しくなったのだという。また、司法にしても警察にしても党の管理下であるから、こうした非合法組織のメンバーが拘束されても、行方不明になったケースも多いという。

馬三家労働教養所はそうした非合法活動家の受け皿であり、思想的な矯正所であった。アメリカで見つかった告発文は大きなニュースとなり、国内外からの批判を受けて、馬三家労働教養所は2013年11月に廃止された。しかし、実際はこうした施設は名前を変えて現在でも存在するらしい。

 

この映画の特徴は、監督のレオン・リーがカナダから様々な映像制作のレクチャーをして、孫毅や協力者が撮影した映像を極秘にやり取りして、編集されたものであることだ。例えば『ラッカは静かに虐殺されている City of Ghosts』(監督・製作・撮影・編集:マシュー・ハイネマン2017年 アメリカ 92分)が、その殆どがスマートフォンで撮影された映像だったように、この映画でも撮影そのものが極めて危険な行為であるし、その映像ファイルをやり取りすることも、海外に送ったことも重罪に値する。また、孫毅によって描かれた図解やイラストをベースに制作されたアニメーションのパートも、過酷な状況を見事に描写している。

インドネシアに亡命を試みた孫毅が、告発文の発見者ジュリーに会うというひとつの大きな山場は、やがて訪れる悲劇を招き入れたしまったのではないかとも思ってしまう。こうした亡命者の悲劇はロシア人の例でも既視感がある。

 

中国は党=政府の管理下におかれた資本主義が急速に拡大している。歪な経済政策は貧富の差を拡大し続けている。もちろん中国には行ったことがないので、その実情は分からない。試写会のあとレオン・リー監督は、質疑の最後にこのようなことを話した。「中国の問題をひとことで言えば、プロパガンダと暴力だ。新型コロナウイルスの対応でも、初期対応が遅れた問題は隠され、武漢を封鎖したことだけが、党の功績と言われ続け、多くの人がそれを信じている」と。翻って日本はどうだろうか? プロパガンダと暴力は、程度の差はあるけれども、確実に現政権の問題点である。暴力とは、沖縄や基地問題、原発問題での民意無視であるし、沖縄では暴力による反対運動の排除が進行している。プロパガンダは、政府主導の犯罪的な行為(恣意的な学校認可と新設、国有地のたたき売り、公職選挙法違反、政治資金管理法違反、自衛隊法・憲法違反などの疑い)が、巧妙に都合良く言い換えられている。管理下に置かれた資本主義は、弱者を無視して富裕層だけを拡大している。ゆっくりとじっくりと、事態が進行している日本は、その解り難さ故にむしろ深刻かも知れない。

 

この試写会の最後にレオン・リー監督は言った。

「孫毅(スン・イ)が馬三家労働教養所で書いた手紙は20通ありました。発見されなかった19通はどうなったのでしょう? この映画を見た人は、孫毅からの手紙を発見した人のように、ここで観たことを誰かに伝えて欲しい。」と。

せめてこの映画を目撃する事、観たことを伝える事くらいしかできないかもしれないが、観たことの責任を感じ続ける映画になるだろう。

 

この映画に先立ち2018年9月19日に「NHKBS世界のドキュメンタリー」で同名の45分版が放送されている。

2020.02.12 Wednesday

緻密に強固に言語化された堤防を、映像の力で決壊させていく心地よさがある

『パラサイト 半地下の家族』

監督:ポン・ジュノ 2019年 韓国 132

 

先月、この映画を観た話を高校の授業の冒頭でしていたときに、この映画はカンヌでは最高賞を受賞したけれども、アカデミー賞というのは基本的にアメリカ映画産業に携わっている人が選ぶ賞なので、アメリカ映画と「それ以外」という考え方が主流なんです、などと言っていていたので、ちょっと慌てている。ここ数年はアトラクション映画に辟易とした反動なのかもしれないが、『パラサイト』自体はとても良くできた映画なので、複数の受賞はとても素敵な事件だと思う。

 

この映画を観たあとに、やはり脚本が良くできているなとは思ったけれども、しばらくその理由を考えていた。一方で、このところ映像祭や学生作品の審査などをしていて、それらの映像には何が足りないのだろうかとも考えていた。

たどり着いたのは、言語化のプロセスなのではないかということだ。それをやっていないということではなく、足りていないのではないかと思う。

 

シナリオは映像制作の設計図であるから、言語と、場合によっては設定や空間の俯瞰図など書かれている。その言語を元に絵コンテなどのより具体的な設計図に描き起こされていく。シナリオは状況とセリフが淡々と書かれているので、例えば「〇〇は、昨夜のことを思い出して、ひどく後悔していた」などという心情を表す言葉では書かない。ひどく傷ついている状況を「暗い部屋の窓際で、明かりも点けずにうつむいて座ったままじっと動かない」などと役者の有り様を説明する。それをどのような構図やカット割りで示すのかを絵コンテに描いていく。

ここで重要なのは、言語と映像化のための作業(構図を示したり、照明を作ったり、台詞のタイミングを作ったり)との間には、更に複雑な言語化の作業が必要だということだ。どのような心情で、何故、そういう態度を取るのか、何故そういう表情なのか、どこを見ているのか、何故、言葉に詰まるのか、間合いが必要なのか。そして、何故この場所や空間でやり取りや事件が起こるのか? そういうことは感覚的な作業ではなくて、むしろ極めて言語的で緻密な解釈の交換なのだ。あるいは語彙の問題だ。例えば「悲しみ」を伝える無数の言語表現のグラデーションを、伝える側がどのくらい持っているか。それをどのように具体的な人物の振る舞いに反映させるのか? 映像表現はこのプロセスに大きく左右される。

 

そして、映像表現が面白いのは、そうして丁寧に構築された言語的な構造に、あるカットの一瞬の驚きや輝きが唐突に裂け目を作って、一気に決壊させるようなダイナミックな展開を見せることがあり得るということだ。

 

『パラサイト』での雨や雷や洪水はそうした決壊を文字通りに示した映像的な魅力であるし、幸運の石も、モールス信号も、「半地下」「丘の上」という設定そのものも、「におい」という映らないものまでも、それらは丁寧に構築されていて、危うさとギリギリの均衡にある、不安定な状況を作り上げている。つまり、展開が唐突で予想外だから面白いのではなくて、どうすれば予想外の展開になるかが緻密に言語化されているから面白いのだ。それが、セリフに絵がついているような映像ではなくて、さらに複雑な言語化の作業があるから映像による破綻が見えてくるのだ。

もちろんシナリオを読んだわけではないので、これらが的確かどうかはわからない。また、こういう言語化の重要性は劇映画だけの問題ではなく、ドキュメンタリーでもビデオアートでも同様だ。

 

ここに書いたことは、シナリオの作法や映画制作では当たり前のことではないか、と思われるだろうか?

今、この国で最も言語的な能力を疑われているような人たちが、政治を動かしている。「クールジャパン」がダメだとは言わないが、テレビCMでは声が大きくて馬鹿っぽい若者がダジャレを言うようなモノばかりだ。お笑い芸人のように、素早い反応や反射だけが巧みな言葉遣いだと思われている。一方で政府は文学や文系を軽視し続け、熟慮や議論を避けて中途半端な同調が良しとされる。こうした政策が、ゆっくりとじっくりと若者や学生たちにも浸透しているように思われるのだ。

 

いずれにしても、改めて目指そうと思ったことは、映像の設計図を徹底的に言語化の作業で詰めて構築して、それをはみ出していくような映像的破綻を積極的に許容すること。

これからはいくつかの授業では、もっと言語化と解釈の作業に力を入れていこうと思った次第です。

2020.01.24 Friday

この映画には彼らのダンスが路上に在る理由しかない。

『ダンシングホームレス』

監督・撮影:三浦 渉 プロデューサー:佐々木伸之 Tokyo Video Center

2019年 99分 

 

これまで、ダンスが劇場ではなく街や路上に出る理由はなんだろうか?と考えていた。

この映画には彼らのダンスが路上に在る理由しかない。

 

試写会を終えた会場で「かっこいい映画を作ったね」と、監督の三浦 渉さんに伝えた。

ドキュメンタリー映画を観て、久しぶりに「かっこいいな」と思った。監督をよく知っているから持ち上げているのでも、その成長ぶりに感心しているのでもなくて、本当にかっこいい映画だなと思った。

「観ればわかるでしょ?」と言われているようでもあった。ホームレス、路上生活、非正規雇用、社会的弱者、生活保護受給と少なくとも社会問題に片足を突っ込んでいる内容であっても、ナレーションやテロップは極端に少ない。観ればわかることは言わないし書かない。あるいは必要以上の情報を加えないし、徒に感情を煽るような言葉や音楽もない。登場するダンサーたちもそれぞれ名前と年齢が文字で伝えられ、それ以上の情報は映画の中で、取材者である監督との会話で聞こえてくる。「新人Hソケリッサ」の主宰者・アオキ裕キ氏のインタビューは、簡潔で歯切れがいい。彼が言うように路上生活者の身体表現がとても面白いのだ。それ以上の動機ではない、と彼は言う。彼自身も、商業ベースで消費される「ダンス」や振り付けに疲れたのだろうか? その多くは語られない。だから観ればわかることしかわからないし、推して知ればいい。それでいいのだと思うし、映像以外の情報を最小限にした演出は、アオキ氏の考えと共鳴していて潔い。また、ホームレスのダンサーたちとそれぞれ向かい合う時の、独特の間合いとか距離感とか視点とか、時々不躾にも聞こえる質問がとてもいい関係を見せてくれている。訓練してできるようなものではなくて、これは、監督が持っている生来の空気だろうなと思った。

 

もちろん、路上生活者ではない我々から見れば、何もかも失って生きている人たちの極限の身体などと、プロの表現者がその限界突破をアウトサイダーに求めるような態度にも思われるかもしれない。

表現は何度も繰り返して、そうした外部の突発的な表現を取り込もそうとしてきたし、理屈をつけるならば、原初的な感覚や極限状態の表現などを突破口として、あるいはノイズとして取り込んできた。あるいは土方巽の舞踏は「身体であることの不自由さ」や、躍動ではなくむしろ抑制に近い動きを独自に取り入れていた。よく知られているように、あの舞踏に特徴的な中腰のゆっくりとしたリズムは、泥に足を取られる田植えに似ている。生活者の動きやテンポは日本独自の舞踏として発展した。

僕は学生の頃に精神病院での芸術療法に興味を持っていたし、絵画や陶芸だけではなくて、演劇やダンスも療法に取り入れらていることを知った。舞踏家・石井満隆のドキュメンタリーを制作した入り口は舞踏療法だった。そして彼の後を追いかけるように撮影していったことで、その思い込みは見事に打ち砕かれ、「誤解」が編集の際のキーワードだった。そういえば、アオキ氏のワークショップは僕が観てきた舞踏のワークショップの段取りと似ているな、と思った。まずは気持ちを解き放つこと、鏡のように人の動きを真似てみること、そして、今、自分の周りにある様々なものを感じて、反応すること。つまり、インプロビゼーションの感覚を体で表現してみる。準備運動などの手続きはあるものの、どんな反応や動きでも、それを参加者全員が受け入れていた。僕の作品では1985年はひたすら観ることに費やし、86年は石井満隆が参加する様々な場所にカメラを持って出かけていった。若い舞踏家や学生たちが参加する合宿のワークショップでは、田んぼで突然踊りだした。檜枝岐パフォーマンス・フェスティバルでは、神社や河原や路上がその舞台だったし、ほとんど野宿のような状態だった。舞踏療法を取り入れ、夏祭りや冬祭では患者たちと一緒に踊っていた、あの素敵な陶芸小屋や畑があった開放病棟は、もうない。

そんな事も思い出しながら観ていた。

 

ダンスカンパニーが映画を作ることはこれまでにもあった。僕はダンスの専門家ではないけれども、有名な作品はいくつか観てきたつもりだ。かつてピナ・バウシュの『One Day PINA Asked…』(1983年)は、石井満隆のドキュメンタリー制作の参考にしようと初めて観たダンスドキュメンタリーだった。ピナ・バウシュは来日したときの舞台も観ていたし、『ピナ・バウシュ 踊り続ける命』(監督:ヴィム・ベンダース 2012年)もとても興味深いと思っていたけれども、ダンスが劇場のような舞台ではなく街や路上に出ていく理由は、今ひとつつかめなかった。3Dで観る理由も。初期の『嘆きの皇太后』(1989年)は、街というよりは極めて舞踏的に解釈された風景が繰り返されていた。乱暴に言えば寺山修司の映画に出てくる風景のように、極私的に解釈された風景がダンスに寄り添っている。いかにも、という作品はダンス×映像の典型の極だったと思う。それはベルギーのローザスでも近いものがあって、廃墟となった学校や森の中の円形の舞台装置は、とても美しいけれどもダンスの背景としてはとても優れすぎている。「Dance for Camera」というシリーズに収録されているのは、いくつかのダンスカンパニーによる短編映像で、むしろ映像のためのダンスであり、映像×ダンスという逆転の比重がよく分かる。

一方でイギリスのDV8フィジカルシアターは、初期のフィルムから街や労働者、同性愛者やマイノリティーが意識されていた。パブや路上で突然繰り広げられる男たちの汗臭そうなダンスは『エンター・アキレス』(1997年)でもそうだったし、『The Cost of Living』(2006年)では、ダンサーたちが主役の短編劇映画に仕立て上げられていた。

 

そう、『ダンシングホームレス』を見て、かっこいい映画だと思ったのは『The Cost of Living』を思い起こしたからだった。冒頭やラストがスタイリッシュであるからではなくて、むしろほとんどが泥臭く、ダンスと映画のコンセプトが見事に内容と合致しているからだ。

最近のダンスや舞踏の動向にはあまり関心がなかったけれども、この映画でまた身体表現への関心を刺激されてしまった。

 

ありがとう、三浦くん、本当にいい映画だと思いますよ。

2020.01.15 Wednesday

今、テレビは「ただの現在」でさえないのだろうか?

『さよならテレビ』

監督:土方宏史 プロデューサー:阿武野勝彦 

制作/配給:東海テレビ 配給協力:東風 2019年 109

 

高校での授業の冒頭でこの映画を紹介した。合わせて東海テレビが、テレビ局発の長編劇場用ドキュメンタリー映画制作の先鞭をつけて、この映画が2011年から続く12作目であること、そして、僕がこれまでに観た7作品がどれも独自の視点を持った素晴らしい映画であったこと、テレビ局発の長編ドキュメンタリー映画は、大きな可能性があると思わせてくれたことを話した。

しかし、この映画を紹介する時に、何かを言い澱んでしまったのは何故だろうかと考えた。

 

プロデューサーの阿武野勝彦さんとは、平和・協同ジャーナリスト基金賞の場などでお会いしたことがある。その時にも、〈地方のテレビ局が作ったドキュメンタリー番組は、全国配信される機会が極端に限られていて、そうであれば、劇場公開するほうが、長期間の全国展開も可能だし、何度でも観てもらうことができる〉といった趣旨の話をされていた。その通りだと思うし、東海テレビに続いていくつかの地方局が、長期取材したテレビ番組を劇場用に再編集して公開している。

 

12作目の劇場公開作品は、いくつかの話題が先行していたが、ようやく観ることができた。そして、この映画の後味の悪さをどのように説明したらいいのか、しばらく考えていた。「慢心」という言葉さえ観終わった後に思い浮かべてしまった。テレビがテレビを描くという自己言及の構造が、宣伝チラシにあるような「裸のラブレター」であると思っているとすれば、テレビはまだ思い上がってはいないかと思ってしまう。しかしその思い上がりをテレビ自体が描いてしまうこと、それがこの映画の狙いのひとつでもあるとすれば、不可解な入れ子の謎解きを命じられているようで不愉快ですらある。その怒りこそがテレビに必要なのだと、煙に巻かれるだろうか? 

テレビ局が舞台になったとても良くできたドラマだと言ってもいいかもしれない。実在の人物が実際の仕事を演じるという劇映画もある。その是非を問うているのではなくて、フェイクであるか、そうではないのかなどと論じあっている観客を高みから見ているような、テクニシャンの笑みが見え隠れする。そう考えると、ラストシーンの会議室でのやり取りは、77分だったというTV版にも入っていたのだろうか? と思ってしまう。

 

この映画は、どう考えても場当たり的な企画書から始まる。「今のテレビはどうなっているのか」と問うならば、その企画書の後段には何らかの仮説が書かれていたのだと思いたい。しかしこの粗末な企画書で撮影を始めることさえ、テレビ的な仕掛けなのだろうか? 何が撮りたいのか、それで何がしたいのかわからないと、現場のスタッフや上司からは問い詰められる。「まずは撮るのをやめろ」と叱責されたカメラマンは、「約束通り」に記録が続いたままでカメラを床に置き、音声だけが聞こえてくる。本当にこんなふうにこの映画は始まっていいんだろうかと半信半疑だった。そこで立ち止まり、作戦を立て直しているように見える。その後に、いくつかの約束事がかわされ、報道局の内部が映し出される。

「テレビとは何か?」という問いは「テレビとは何かに自ら言及するテレビ」という、仕掛けによって、複雑な構造を提示する。それは、「TVの今はどうなっているのか」という企画書の言葉に呼応する。メインから降板させられるキャスター、テレビがジャーナリズムであることの原則を信じている制作者、アイドルオタクで失敗ばかりしている契約社員のディレクター、と3人のそれぞれがテレビの現在を問うていることは解る。もう何十年も続いている局と委託・契約の制作体制が、ジャーナリズムとしての使命など置き去りにしてきたことは、日々の数字をノルマのように伝える姿を見れば、それが末期的であることも解る。「ぜひネタ」といった一見情報番組のような扱いが、スポンサー案件であることも理解できるし、ドラマ中のタイアップCMなどは地上波でも日常的に現れる。疲れていると思う。悪循環から抜け出す手立てを探っている人もいると思う。それで? と残酷な問いをあえて突きつける。

 

そもそも、メディアの自己言及は、そのメディアが疲弊した時に、くり返し起こっている。それは映画でもそうだし、演劇や文学でもそうかも知れない。70年代のテレビマンユニオンも、そこを去った佐藤輝の仕事も、佐々木昭一郎も木村栄文も知っているだろう人たちが、今、この映画で問うているものは何だろうか?

 

かつて「テレビとは〇〇である」といくつもの言葉をぶつけて、それを実践しようとした人たちがいた。『お前はただの現在に過ぎない』では「テレビとはなにか?」という問いに対して18の提言が記されている。

 

テレビは時間である。 現在である。 液体である。 生理である。 ケ(日常)である。 ドキュメンタリーである。 大衆である。 わが身のことである。 ジャズである。目で噛むチューインガムである。 第五の壁である。 窓である。 正面である。 対面である。 参加である。 装置である。 機構である。 非芸術・反権力である。

 

今、テレビのことを表すならば、何だと言えるだろうか?

 

テレビを信じるなとテレビマンが言うかのような仕掛けは、「ドキュメンタリーは嘘をつく」と言い切った森達也氏の映画に近いようで遠いのかもしれない。そもそもドキュメンタリーという言葉は「事実の創造的劇化」を許容していたし、再現であっても、それが誠実であれば手法の一部であった。だから、ドキュメンタリーは事実をベースにしていても、事実そのものではない。それは「真実」を描こうとする手続きであるといえば詭弁だろうか? そうではなくて、事実そのものを切り取ってフィルムに定着したとき、そこには既に制作者の恣意性が介在するという自明の論理は許容されてこなかった。TVドキュメンタリーは「捏造」や「やらせ」といった言葉を恐れ厳格に、自らを追い詰めていっったととも言える。だから、海外のドキュメンタリーに比べて自由度も少なく、むしろ狭量な自己検閲に苦しめられてきた。

 

僕は、テレビはもう終わってしまうとは思っていない。優れた番組やその作り手たちがいることも知っている。だから、総じてダメだと言い続けている。

テレビが「現在」であろうとしているか? 「液体」であろうとしているか?「生理」であろうとしているか? とあらためて問いたい。時流の中のメディア的な劣勢を憂う前に、テレビにさよならを告げる前に、やりっきたテレビの姿をもう一度見せてほしいと願う。

2020.01.04 Saturday

Sorry We Missed Youという感情のない定型句が、とても美しく悲しい言葉に思われる

『家族を想うとき』 原題:Sorry We Missed You 監督:ケン・ローチ

 2019年 イギリス・フランス・ベルギー 100

 

2019年の最後にケン・ローチのこの映画を観ることができてよかった。

以前から外国の映画を観ると原題の意味は考えていたけれども、この映画の原題『Sorry We Missed You』が、とても美しいタイトルだと思う。イギリスでは宅配便の不在通知に定型句として書かれているもののようだ。その言葉が映画全体にも響いていく。イギリスでの状況なのに出来事のひとつひとつに既視感に似た苦さが湧いてくる。今の日本で、いや、住んでいる場所の直ぐそばで見えているものが、いくつも思い出される。

20年以上うちに宅配を届けてくれる人は、以前は大手の制服を着ていた。最近は軽トラックには大手の会社のロゴはない。おそらく、委託の宅配業者として独立したのではないか? 大きなお世話かもしれないが、この人の顔が浮かんできた。

自動車事故で横転しているトラックをニュース映像で見ると、この荷物は誰が補償するんだろうか?などと心配になる。大手業者ならば、相応の保険があるのだろう。でも個人の委託業者だったら、などと思ってしまう。介護や保育の現場では、深刻な人手不足が続くのに待遇は改善されないままだし、コンビニのオーナー達の悲鳴も聞こえてきた一年だった。

この映画の家族も、慎ましく生きようとするのだが不器用ですべてがうまく行かない。宅配ドライバーの父親リッキーは、荷物のデータを送受信する小さな端末を持たせられ、2分間車を離れると警告音がなる。指定の時間に少しでも遅れるとペナルティーがある。客からのクレームもあるし、駐車違反も心配しなければならない。荷物を運んだ数が、収入の増減に直結している。家族の誰も悪くないのに、物事は悪い方にしか進まない。宅配業者を取りまとめている冷酷に見えるロニーでさえも、もっと上部の指示とノルマをこなすために、厳しい指示を出している労働者に過ぎない。妻、アビーの介護士としての優しさは、効率の悪い「余計なこと」でしかないのだろう。人と直接接する仕事でさえも、分刻みに管理されている。

そんな状況に、ケン・ローチは中途半端な「希望」を用意したりはしない。前作の『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016年)で描かれた人たちも、そんな理不尽さに巻き込まれていく。この映画のすぐ近くで、並行して起こっている悲劇のようだ。そんな錯覚もしてしまう。

2019.12.13 Friday

ヤングポールの「究極の映画愛」は、映画を「終わらせること」に執着した屈折した愛ではあるけれども、無視できない純粋さと情熱を保っている。

『Ghost Master ゴーストマスター』

監督:ヤングポール 脚本:楠野一郎/ヤングポール 2019年 91

 

4月からのゼミで、たまたま「映画についての映画」に取り組んだ学生がいたことで、あらためて「映画の中の映画」や「映画制作の現場が舞台となった映画」、「映画が制作される過程がいつの間にか映画の本体であるような映画」をいくつか観ていたために、『ゴーストマスター』も興味深く観ることが出来た。この映画でも、映画の撮影現場はたまたま選ばれた設定ではなく、「映画愛」を描くために必然的な選択だったはずだ。入れ子状に展開する映画とそれを撮る映画は、仕掛けを複雑にするだけではなく、物語のためにも十分に魅力的な仕掛けであることは間違いない。だからといって、既にいくつもの優れた「映画についての映画」がある以上、それらを超えるためには、それなりの覚悟と勇気が必要だ。

 

映画を作る者ならば誰でもその終わり方に随分とエネルギーを注ぐものだ。それは、2時間程度で上映される一般的な映画でも、10分の短編でも4時間を超える映画でも同じだと思う。しかし結末の巧みさに溺れているような映画は、せいぜい、よくできたシナリオを見せられているようでつまらない。映画は、やはり、観ることで共振し続けるような、視覚的な刺激の連鎖であるべきだ。もちろん、それは派手な視覚効果を切れ目なく続けるような見世物的興味を指してはいない。何も起こらないような長く静寂なカットでも、驚くほど動揺するような体験はできる。そしてそれらのカットは、終わりに向かって複雑に共鳴していく。問題はその塊をどのように葬るかにある。

『ゴーストマスター』は、映画の始まりから、徹底してこの映画を終わらせることに執着しているように見える。そして、映画を終わらせるためには、そもそも映画はどのように終わるべきか?などという問いに向かい合う必要がある。真面目に考えようとすれば、その過程で「映画」と何か?などと自問するはめになり、「映画をめぐる映画」は、自己言及の迷路に迷い込み、映画を作ることは映画を終わらせることに違いないと、自家撞着にたどり着くこともあるだろう。それはそれで、この生真面目な問いに、立脚点や視点を変えて繰り返し答え続けてきた映画の歴史にも重なる。思考停止の状況に気が付かないふりをして、どうでもいいようなものを量産し続けるよりは、遥かに創造的な営みだ。

 

しかし、「映画についての映画」のような自己言及は、文化的にはそれが疲弊した段階に現れる。それは映画に限らず音楽でも美術でもそうで、その都度、問いは変奏しながら何度でも現れてきた。画期的な答えも解決策もないために、安易なリメイクやリバイバルに救いを求めたり、終わることの出来ないシリーズを作り続けることで延命を図ることになる。それでも、安易な懐古は別としても、解釈の違いや表現の差を面白がることはできる。だから繰り返されてきた。

「映画についての映画」といえば、すぐにでも思い出す『カメラを止めるな!』という映画は、本来は隠される舞台裏を前面に押し上げることで、滑稽な「映画愛」を描いて見せ、それがあたかも映画の核心であるかのような誤解をさせたことで、自己言及をポジティヴに転換して、「映画好き」を喜ばせたらしい。しかし、よく耳にする「ナタバレ厳禁」が示しているように、その終わり方を隠すことでしか保てない訴求力とは、いかにも儚い。

 

もちろん『ゴーストマスター』をその程度の映画だと言いたいわけではない。B級ホラー映画に固執する助監督の黒澤明がしたためた自分の脚本が、唐突に予想外の力を持つことで荒唐無稽なストーリーを強引に引っ張ることは、映画として面白い。過剰な暴力を次々と引き寄せてしまう魔力のような設定は、それが「映画」だから許される悪戯だと言えるし、最後まで見せ続ける力量には感心する。「映画」とは、そもそも、始まってしまえば終わらなければならいという、そんな単純な動機で編まれていれば十分だと監督・ヤングポールは思っているだろうか? その単純さに、どこまで自覚的であるかが実は重要な問題なのかもしれない。映画を終わらせることが美しいと胸を張って言ってほしいと願う。今動いている映画を執拗に、暴力的に終わらせようと、何度も試みるその「終わり」への自家撞着こそ、うんざりするほどの屈折した「映画愛」を共有するための手引なのだと確信していれば、この映画はきっと許される。僕はそれを好きだと言ってもいい。

 

2019.12.09 Monday

森達也監督が問う「望月さんが目立っていることや、この映画をわざわざ撮ること自体が問題だ」というまっとうな感覚は、既にわれわれが狂った事態に麻痺していることを気づかせる

『i —新聞記者ドキュメントー』

監督:森達也 

出演:望月衣塑子 企画・製作・エグゼクティブプロデューサー:河村光庸

制作・配給:スターサンズ 2019年 113分 

 

 午後くらいから観ようと思うと、イオンシネマ板橋がちょうど都合が良く、休日の「青森フェア」で賑わう店内を通って5階につくと『アナと雪の女王2』のためか、とても混雑していて、それでも、シアター1はまるでポレポレ東中野のような客層で少し安心したような、相変わらずドキュメンタリーには若者が皆無であることにがっかりしたような、複雑な気分だった。それでも、ようやく観ることができてよかった。

 望月衣塑子記者のことは、報道されていることやFBや「週刊金曜日」などである程度は知っていたし、映画『新聞記者』も観ていたので、とても興味深かった。2017年には東京新聞の「税を追う」が平和・協同ジャーナリスト基金賞の奨励賞だったので、もしかすると会場でお会いできるかもしれないと思っていたが、それどころではなかっただろうことはこの映画を観ても解る。

 正直に言えば、映画としては雑な仕上がりだと思う。それは映画の中でもしばしば現れる森達也さんのカメラは、撮影していないように撮影している箇所や、突発的な動きや事態に対応していたり、撮影のための道具というよりは、むしろそこに共にあった記録装置のようで、画面としては動きが激しく荒い。それでもその映像が意味を持っているのは「現認」としての映像だし、編集された映像はできるだけ早く公開されることが目論まれたためだと思う。数年に渡る記録では手遅れになる可能性もある。日刊紙の新聞記者が、日々の取材を重ねて情報を更新していく一人のジャーナリストだとすれば、この映画はそれを一定期間でまとめた月刊誌のようなものだと思った。この月刊誌もまた、一定の期間で更新される必要がありそうだ。

 菅官房長官と望月記者とのやり取りは、既に何度か映像で観ていたし、何を質問されても「法的に適切に対応している」と繰り返す答弁や、質問妨害のあまりの酷さには憤っていた。それでも淡々と、同じような食いつき方を繰り返す望月記者の姿は、答えはわかりきっているけれども、この醜い対応の仕方を公表する必要があり、その対応の裏にある何かを嗅ぎ取ろうとする態度なのだと思った。強くアクティヴに映る彼女の姿は、「その他」の記者やメディアを照射しているように見えてしまう。実際に森監督自身が、「彼女が特別なことをしているわけではない」ことは十分承知で、それが格別の何かのように目立ち、あるいはそれ故に排除やバッシングの対象になり、官邸からもネトウヨからもマークされ、一方でメディアにも取り上げられ、講演などにもでかけていく、その現象に、ただならぬ事態とその急激な進行を嗅ぎ取っているのかもしれない。

 映画の内容には直接関係はないのだが、官邸の記者会見の様子は、すべての記者が一様に同じようにキーボードを叩く、その音の響きの空疎さでも伝わってこないか?誰も話をしている菅官房長官を見ていない。上意下達の儀式であるように映るのはそのためだと思う。この定例会見の主体は、主催者は誰なのか?という問もあった。だからこそ思う、何処を向いてメディアは仕事をしているのかと? 

 そう言えば望月記者が、大量の書類と一緒に書きなぐったような取材ノートをいつも持参していて、素早くメモをとる姿がどこか昭和の新聞記者像のようでもあった。長年積み上げた習慣なんだろうなと思う。

 日本国にもこの国のメディアも、一体何処に向かっていくのか? こんな当たり前の問いが、望月衣塑子記者の行動から浮かび上がる。

2019.09.08 Sunday

確かに希望が描かれているはずなのに清々しい気持ちになれないのは、構造的な貧困の連鎖と失われていくものの大きさが、重く深くのしかかってくるからだろうか?

『風をつかまえた少年』 原題:The Boy Who Hernessed the Wind

監督・脚本・出演:キウェテル・イジョフォー  2018年 イギリス、マラウイ 113

 

チラシを手にしてから、その映画のために想像をふくらませる時間は楽しい。この映画の主題が「たったひとりで風力発電を作った」というキャッチコピーで表されるなら、小さくても希望を感じる清々しい映画なのだろうと思った。原作は絵本にもなっていることを知った。実在のウイリアムがアメリカの大学に進学し、多くの人に知られたのは、奇跡的であっても嬉しい事実だ。現在は農業や水、教育の分野で仕事をしていると書かれていた。

 

この映画の根底にあるのは、マラウイ共和国がアフリカ最貧国のひとつであり、映画の中心は主食のトウモロコシと水をめぐる困難さである。2001年に起こった大旱魃は貧しさを加速させて、タバコ産業に土地を売るかどうかを迫られる。木材を伐採して燃料として売れば、一時的な収入にはなるけれども、それは水害を加速させるし、旱魃にも耐えられなくなる。僅かな木々を手放せば取り返しがつかなくなることは解っているが、当面の貧しさを乗り越えられない。地域の未来のためにも、子供を学校にやりたいという親の希望は、食料と水と貧しさの問題を克服することよりも、遥かに優先順位が低い。回り道のように見える知恵を育てた少年が、この土地を救うという、美しいがそれでも儚い希望の物語なのだ。

 

この映画では、主題とは少し距離をおいて、葬儀の儀式が印象に残る。葬儀の最中に、おそらくこの土地に伝わる精霊に扮したグループがやってくる。彼らは皆、仮面をかぶり鳥の羽を頭につけて、足の長い大きな鳥のようにも見える。かつての土着の民族が残した風習に従っているのだと思う。死者を死者の国に送る役割を担う「マレビト」たちではないか。葬儀の場面ではその役割を演じるが、疲弊して力尽きた姿も描かれる。この国や土地の姿を象徴しているのだが、視覚的な印象はそれ以上の効果をもたらしている。

 

それにしても、粗末な風車と自転車のライトを灯すダイナモを組み合わせて、僅かな電力を得るというのは解るのだが、その電力をポンプに使ったのかという素朴な疑問があった。井戸から水を汲み上げるシーンでは、いくらかの違和感があったからだ。そもそも井戸には常に水があったとすれば、それを組み上げる知恵は、少年の発電を待たなければならなかったのか? 人力で組み上げるのは効率が悪いことも理解できる。それでも、井戸には水があるのだから、なんとかならなかったものかと思う。マラウイには広大なマラウイ湖があるので、地形的には地下水は豊富なのかも知れない。おそらく井戸を掘る、水を汲み上げるという基盤づくりの作業が、農作業のために事業化されていない現実を描くことが重要だったのだろう。このことが、将来の希望よりも不安を掻き立てる。もっと大きな旱魃は来ないだろうか? もっと深刻な水害は、この程度の知恵で防ぐことができるのだろうか? 構造的な貧困の連鎖は簡単には回避できないだろう。それでも、それでも、こうした儚い希望を称賛することに戸惑いはないか。安全な場所から紛争の行方を眺めて、ため息をついているようなものではないのか。

 

公用語が英語だということにも少し戸惑いがあったが、マラウイは1891年にイギリスの保護領になり、1964年に独立してマラウイ共和国となっている。

 

 

2019.08.25 Sunday

この子らの絶望に対して、自分にできることは何ひとつ無いという絶望

『存在のない子供たち』 原題:Capharnaüm(カペナウム)

監督・脚本・出演:ナディーン・ラバキー 主演:ゼイン・アル=アフィーア

2018年 レバノン、フランス 125

http://sonzai-movie.jp/about.php

 

目の前に広がる風景は、一体どこの地域なのだろうかと、自分の記憶や既視感を手繰り寄せてみる。どうやら中東のどこかであるらしい。僅かな知識でも、その少年の目を見れば、最貧困層の居住地域らしいことだけはすぐに解る。難民キャンプではなく居住地域。どこからか逃れてきたのかも知れないが、仮住まいではない積年の生活感が、彼らの貧相な持ち物からも窺い知ることができる。幼い子供たちがゴロゴロと雑魚寝をする小さな部屋は、彼らの薄汚れた衣類からの匂いさえ感じることができる。少年・ゼインは、この家庭では子どもではなく、ごく若い労働力でしかない。すれ違う学校の送迎車の前面には、そうして荷物を運ぶことが違反でも非常識でもないと言わんばかりに、通学用のリュックが無造作に押し込まれている。まだマシな子どもたちが、幼い労働者を見ている。当たり前のように重労働を日課として、仕事を終えるといくつかの食料をもらい、ついでに見つからない程度に盗む。小さな商店の雇い主は、その家族の家主でもあるらしい。路上ではどうやって作ったのかはわからないが、赤い飲み物を並べて自家製ジュースと称して売る。「死なない程度に生きる」という、どこかで聞いたような言葉が浮かんでくる。映画に映し出されるこうした細部が、物語の強度をさらに補強するかのように、その少年の目は鈍い輝きを大人たちに向ける。

 

あるとき、妹・サハルの初潮に気がついたゼインは、汚れた下着を洗わせ、自分のシャツを股に挟ませて、それを隠そうとする。いつもの商店で生理用品を盗む。なぜか? 同居している子供たちは皆幼い。もしかすると以前には姉がいたのかも知れないが、初潮を合図に、人身売買のような結婚をさせられたのではないか? あるいは、そういうことが、この地域でいくらでも起こっていることを、ゼインは知っていたのかも知れない。妹を連れて逃走を図るが、両親に察知されてしまう。ゼインは家を出て、バスに乗って別の場所へ逃げる。そこが今いるここよりも、少しもマシな場所でないことは、少年にも解っているのだろう。粗末な遊園地で働いていた不法移民のラヒルが、乳飲み子の子守をさせることと引き換えに、ゼインを同居させる。ラヒルも同様に、貧しさと不法移民である身分に怯えている。冒頭にシーンは、ここからラヒルとゼインに起こることと繋がっていた。

 

妹はいつも働いている商店主と結婚をさせられ、その後に大量の出血で死んだという。結婚は僅かな家賃を大目に見てもらうためだった。ゼインが収監されるのは、妹の死を知って、商店主を刺してしまったからだ。ゼインの妹・サハルが11歳で強制的に結婚をさせられるという嘘のような展開は、物語を意図的に加速させる手段ではなくて、そこにある十分に日常的な出来事なのだ。イスラム教圏の映画では、こういう理不尽な強奪に似た結婚を目にすることがある。イスラム教徒が多様であることは解っているつもりだけれども、特に原理主義に近い宗派では、なぜ、こんなに幼い女と結婚しようとするのだろうか? この奇妙な慣習の意味は未だによく解らない。

 

この映画は予告編や宣伝文句にあるように、両親を12歳の子供が訴えるという驚きの事件とその裁判を設定している。「自分を生んだ罪」という荒唐無稽にも思われる罪状が、ゼインの決意のすべてだった。「もう子供を作るな」と裁判所で訴えるが、両親の苦悩は、子供に優しさを欠いたことではなく、自分たちの境遇と絶望の連鎖だった。そして、映画としての圧巻はそのキャスティングにある。少年・ゼインの眼差しを発見したことは、この眼差しが映画に現れることはもう二度とないだろうという確信と共に、記憶にとどめておこう。家族や近親や周囲の者を演じるそれぞれも、実際にも似たような境遇を体験している人たちであるらしい。プロの役者たちではない。そのリアリズムはイランの劇映画にも似ている。こうしたキャスティングは、劇映画が持っている物語りの強度が、史実や事実を踏み超えていく可能性を示している。この映画の様々な設定は、登場人物の実際の体験談から着想されているという。特別な史実や事実を再現しなくても、悲劇は日常的にそこにあり、物語は嫌でも前に進むしかなく、絶望は将来と同義なのだ。

 

レバノンを外務省の基本データを検索してみると、1943年にフランスから独立し、経済的には豊かだったが、いくつもの内戦で疲弊が続いている。キリスト教とイスラム教の18宗派が混在し、宗教と権力の集中を避けるために各宗派に政治の要職や議席が割り当てられている。イスラエル、シリアとの関係は、現在でも常に危うい均衡でしかない。劇中にでてくる通貨「ポンド」はレバノン・ポンドで、1ドルは約1500ポンドなので、ゼインが食料や廃品を売り買いする場面(例えば250ポンドで買える食べ物を探す、水タンクを外して1万数千ポンドで売ろうとする)での物価が解った。

 

映画のHPによると、原題:Capharnaüm(カペナウム)はアラビア語でナフーム村、フランス語では新約聖書のエピソードから転じて「混沌・修羅場」の意味で使われる、と記されている。また、実在の少年・ゼインはいま、家族とともにノルウェーに移住しているらしい。国連難民機関の助けを借りることが出来たのは、僅かな希望か。ゼインの表情が、一度だけ笑顔になるのは、ラストの写真撮影の時だ。カメラマンの指示で、不器用に少しだけ笑う。おそらく、実際の出来事でもある難民申請・第三国定住のための証明写真撮影なのだろう。

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